1、日本の政治の現状とリバタリアニズム


小泉構造改革の勝利とリバタリアン

  2005年9月11日は、日本の政治において重要な節目だったといえるでしょう。小泉首相の率いる自民党が歴史的な大勝利を収め、政権与党としての安定多数をはるかにうわまわる296にものぼる議席を獲得した日だからです。これはまた、いわゆる「改革路線」を国民が支持したといえるでしょう。

 そもそもこの選挙は、郵政民営化法案が衆議院で可決された後に、参議院で否決されるというきわめてまれな事態の後におこりました。法案を提出した小泉内閣は、民意を問うためとはいえ、法案に賛成した衆議院を解散するという、前例のない行為に出たのです。この衆議院解散は「郵政解散」、あるいは俗に「小泉劇場」と呼ばれました。

 そこで小泉首相は、「郵政民営化、賛成か、反対か?」というわかりやすい選挙スローガンを打ち出し、それのみを選挙の論点とすることに成功しました。結果として、自民党は過半数をとる大躍進をとげ、いわゆる「改革路線」は晴れて、国民の圧倒的な支持をえたのです。

 それではいったい、ここでいう改革路線の「改革」とは何の改革を意味しているのでしょうか。

 それまでの自民党の政治は、地方では大きな公共事業をばら撒くために大きな支持を受けるが、都会からは金を集めるばかりであるためにあまり受けないという、地方利権を重視した政治だったといえます。こういった地方偏重の利益配分型の政治に対して、大きな危機感を抱いたのが小泉首相です。

 このままでは近いうちに自民党は支持されなくなる、そうなる前により公平で、効率的な政府をつくろうと考えたわけです。都市住民重視型の政治だといってもいいでしょう。彼は、利権をあまねく地方に分配するという自民党の体質について、大きな変革が必要だと主張しました。その結果、就任時には「自民党が変わらなければ、私がぶっつぶす!」とまで息巻いたのです。

 彼は就任時に公約していた、郵便局や道路公団の民営化を断行しました。これを実現するために電撃的に「郵政民営化大臣」というポストをつくり、慶応大学教授とはいえ、民間の経済学者でしかなかった竹中平蔵を入閣させました。

 全国津々浦々まで張り巡らされた郵便局というシステムは、いうまでもなく都会から地方に金銭を再配分する公共システムです。全国均一料金の郵便という制度は、人口が多く、人が密にすんでいる都会では明らかに黒字となります。その反面、広い地域にまばらに人がすむような過疎の地方では、当然ながら赤字になります。さらにいえば、そういった地域に、世襲が可能な特定郵便局というネットワークを維持することが大赤字であることは、まちがいないでしょう。

 道路公団にしても、採算の合うはずのない有料高速道路を整備するのが、おもな仕事となっていました。道路の維持管理というよりも、あまねく辺鄙な地方にいたるまで、有料道路をえんえんと整備するという計画を着々と実行していたのです。これでは、もはや地方の一般住民への利益誘導でさえありません。それは単なる地方の土建業者の利権を温存するためにおこなっていたとしか言えないでしょう。

 こういった「大きな政府」による旧態然とした国民経済への過大な干渉は、日本経済全体としてみれば明らかに非効率的なものです。国民、とくに若年層もそのことをある程度理解して、小泉首相による過大な政府活動に対する「改革」をある種、熱狂的に支持したのだといっていいのではないでしょうか。

 ところで、このような小泉首相の政治をどのように呼ぶべきかについては、いろいろな意見が出ています。いわく、新自由主義、新保守主義、などなどです。ここで、日本経済新聞社の前政治部長であった芹川洋一編集委員が、2005年の10月3日に日経センターの政治講演会でおこなった次のようなスピーチがあります。


 小泉首相が掲げている理念は、新保守だとか新自由主義だとかいろんな名前で呼ばれているけれども、実はアメリカでいう「リバタリアン」がもっともしっくりいくのではないか。つまり究極の「小さな政府」主義というか、個人の自由を尊重する考え方である。小泉さんが来年引退したら、小泉チルドレンが自民党を割って「リバタリアン新党」を作るというのも面白いかもしれない。


 ここでいう「リバタリアン」が本書のキーワードです。リバタリアンは個人の自発的な活動を重視するという社会哲学です。私は小泉首相がリバタリアンだとはあまり思いません。それは彼が、「個人の自由を尊重する考え方」を強く意識しているとはいえないと思うからです。とはいえ、たしかに「小さな政府」は目指しているとはいえるでしょう。

 小泉首相の目指すところの、「民間でできることは民間にまかせる」というスローガンがあります。これが、経済活動という市民の自発的な行動への政府の過剰な介入を排除するべきだというものだとするなら、やはりそれはリバタリアン指向だといえると思います。

 そしてまた、日本の有権者の多くが既得権益を守る守旧派に愛想をつかし、より効率的で小さな政府を目指す方向への大きな政策転換を望んでいるのかもしれません。この意味では、日本において、徐々ではあっても次第にリバタリアンな思考様式が広がりつつあるといえるのではないでしょうか。


「小さな政府論」の背後にあるもの

 「民間でできることは民間にまかせる」という考え方は、いうまでもなく小泉首相がその創始者なわけではなく、ずっ以前からあったものです。少なくとも戦後の社会哲学には一貫して、力強く存在し続けてきたものだといっていいでしょう。それが80年代から、世界的な規模で急速に力を増してきたのです。

 その背景には、大きく分けて二つの考えがあります。

 まず第一の考え方は、政府と民間を比べると、同じ業務をするのに必要な費用が政府の場合には2倍になってしまう、というものです。これは時に、フリードマンの法則と呼ばれることもあります。これは、「同じことをするのに必要な費用」という、純粋に経済的な効率の観点からものをいっていることに注意してください。

 たとえば、私立と市立の幼稚園・保育園は完全に同一の業務を行っているといっていいでしょう。しかし、現実にはこれらの2種類の施設には、ほぼ2倍の運営費用の差があるのです。なぜでしょうか。

 答えは単純で、人件費がおよそ2倍かかっているのです。勤続15年の保育士の給与は、公務員である公立の場合には年功賃金となっているのに対して、私立の場合にはそれほどには新卒とかわりがないのです。

 もちろん、私立の保育士というのは短大を卒業してすぐに採用されることが多く、結婚を機に退職を強制されているような側面はあり、それが私立の保育園の保育費を押し下げているのでしょう。これはこれで別に論じるべき問題だと思いますが、ここで重要なのは民間がやれば半額でやれるという事実なのです。

 おそらく県庁や市役所などの業務も、そのほとんどを外注(アウトソーシング)してゆけば、公務員の人件費が現在の派遣業界の水準にまで下がり、費用は半額になるでしょう。現に、自治体が直接にゴミの収集をしている場合と民間業者に委託した場合を比べてみると、やはりおよそ2倍の格差が存在するのです。

 昭和の時代を生きた読者のみなさんに思い出してもらいたい例は、それこそ山のようにあります。日本電電公社が分割民営化されてNTTになってからは、毎年のように新規参入業者が相次いで通信の自由競争が激化しました。その結果、かつて3分300円もした東京大阪間の通話料金は3分8円にまで下がっているのです。

 JRの分割民営化しかり、国際通話のKDDしかり、携帯電話のドコモしかり、です。およそすべての公営事業の民営化によって、公営の時代よりも低価格のサービスをより満足のいくレベルで供給しているのがおわかりになるかと思います。

 これらが純粋に経済効率的な面からみた、「小さな政府」の意義です。けれども小さな政府には、単純に物質的な基準で物事をはかるという経済効率などとは比べられない、はるかに重要な意義があります。

 それは「個人の自由」です。

 私たち個人が、自由に他者と契約を結び、それを実行するという経済活動の自由は、小さな政府によってのみ実現されるのです。このことについてももう少し考えて見ましょう。

 今ここに、ハガキや手紙の配達という郵便事業を始めたい企業家がいるとしましょう。こういった信書の類は、都市部では数多く配達されるべき大きな需要があります。ある運送業者がすでに配達ネットワークを持っているとすれば、信書の配達業務、つまり郵便業務に参入することはそれほど難しいことではないはずです。

 郵便局が郵政公社になり、さらに郵便株式会社になる前の法律では、信書の集配という業務は郵便局のみがおこなうことができました。その他の一般運送業者は、信書の集配は法律的にできないということになっていたのです。とするなら、これは日本国憲法22条に定められた職業選択の自由を侵害しているのではないでしょうか。

 念のために、憲法22条第1項の文言をみてみましょう。


 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転、及び職業選択の自由を有する。


この文章を素直に読めば、「公共の福祉に反しない限り」という留保がついてはいますが、原則的に職業選択の自由が国民に保障されていることは明白です。

 信書の集配はあまりにも公共性が高いために、その業務を民間業者が行うことは公共の福祉に反するのでしょうか。たしかにそういう側面もあるかもしれません。そもそも民間業者は営利の追求を目的としていますから、もうからない過疎の地方は信書の配達ネットワークから切り捨てられてしまうかもしれないからです。

 しかし、それは「公共の福祉に反する」とまではいえないと思います。過疎地に関してのみ、信書集配を行う政府機関があってもいいでしょうし、あるいは過疎地の信書集配業務に対してはなんらかの補助金をつけることも可能なはずです。

 憲法で保障している職業選択という自由は、そもそも人間の自己実現・幸福追求権の一環として存在するほどに重要なものなのです。安易に「公共の福祉」という名の下に制限されるべきではありません。

 知識人階層の中には、一般的な職業選択の自由が自己人格の実現にとってそれほど重要なものだとは思われない、というように感じる方もいるかもしれません。しかし、考えてほしいのです。大学で教鞭をとるなり、新聞社などのマスコミで報道関係の職業につくなり、といった職業はほとんど精神の自由そのもの、自己人格の陶冶そのものではないでしょうか。

 2006年現在、郵便業務を行うためには全国に10万本以上の郵便ポストの設置を義務付ける法律が存在するため、業界への参入が相次いでいるとはいえません。

 しかし、いやしくも自由な社会を標榜するのであれば、個人がその責任において他人の信書を集配する業務をすることを禁止する必要などないはずです。こうしたことからすれば、個人の自由は小さな政府でなくては実現できませんし、逆に大きな政府は必ず民間業者の経済活動を制限する、つまり自由を尊重しない社会にならざるをえないのです。

 この意味で、小さな政府論の背後にあるのは、経済活動の効率性の議論と共に、個人の自由のできるかぎりの尊重なのです。

 後でより詳しく述べますが、国家的な医療保険制度とは、「自分は完全に健康であり、また仮に病気にかかったとしても医療を受ける気はまったくない」という確信をもった個人に対しても、国家がその人の財布から無理やりにお金を集めて保険に加入させる制度です。こういった行為が、個人の自由な経済活動とは相容れない強制的な要素を持っていることは、いうまでもなく明らかでしょう。

 同じように年金制度はさらにひどい制度です。自由主義社会の建前では、私が今現在において、個人的にかせいだ金をどのように使うのかは、そもそも完全に自由なはずです。しかし国家はまたしても私の財布から金銭を無理やりに供出させて、ほとんどは現在の高齢者年金にばら撒き、わずかな残りもたいして利率の高くない日本国債等の金融資産としているのです。これもまた全体としてみれば、私たちの財産権の処分の自由を著しく制限していることです。

 自由な社会では、個人財産はそもそも自由に処分できるはずです。しかし大きな政府の持つ意味は必然的に私たちの生活全体への干渉にならざるを得ません。どのみち政府が何らかの活動するためには、税金を使って官僚機構を整備、運用する必要があるからです。

 それにもましてさらに悪いのは、「私たち国民のために」という後見主義的な(パターナリスティックな)干渉は、医者しかり、弁護士しかり、放送免許しかりで、私たちの職業選択の自由を事実上奪うことが多いということです。そしてそのような職業選択の不自由は、個人の職業選択の自由を侵しているだけにはとどまりません。それらの制限された職業では、一般的にいって高価格のサービスを購入せざるえないことになります。つまり消費者としての私たちをも苦しめるという、二重の愚をおかしているのです。

 以上をまとめるなら、小さな政府論の目指すものは、経済効率の上昇と、それにもまして個人の職業選択、幸福追求の自由という精神的な自由の尊重だといえるでしょう。


社民リベラル VS リバタリアン

 ここでやや原理的な議論をしたいと思います。端的にいって、現代の資本主義社会には、基本的に2種類の類型があります。

 まず自分自身に質問してみましょう。

 あなたは社会規制が多く、所得に対する税金が高くても、きちんと国家が福祉を制度運営してくれて、病気や老後の心配のない国がいいと思いますか?それともその反対に、社会規制が少なくて、大きな所得を得た場合にも税金が低い、そのかわりに福祉制度は国家によって制度化されていないような国がいいと思いますか?

 もちろん、この質問には正しい答えなどありません。答えは、私たち一人一人の価値観によって決まります。前者は高福祉型で、社民リベラルな多くの経済規制を持つ社会であり、後者は国家は福祉制度を行わないかわり、個人は経済的に自由な社会だといえるでしょう。

 社会的に分配、あるいは結果の平等を重視する人たちは、いわゆる社会民主主義的なリベラル層だといえます。そういう人たちは一般に、個人活動の自由を過剰に認めるならば、社会秩序や結果の平等が毀損されてしまうと憂える人たちなのです。これはこれで、一貫した正義の思想だといえると思います。

 その反対に、大きな政府による国家的な福祉制度は人間をスポイルしてダメにしてしまうから、望ましくない。そして個人の自由を尊重したほうが、一人一人の創意工夫が社会的に積み重ねられて経済成長も高くなり、結果的により豊かな社会になるのだと考えるのがリバタリアン、あるいは自由尊重主義者だといえるでしょう。

 大まかにいって、この二つの考え方が、現在の社会哲学で議論される国家理念の2大類系だといえます。

 ところが、これに民族主義が絡んでくると、とたんに話がややこしくなってしまいます。詳しくは後述しますが、一般に民族主義者は精神の自由を認めない傾向があるようです。これはつまり、自分たちと違ったものは民族的ではないから、ダメなものだ、あるいは違うやつらはこの地から出て行け、というような単純で排他的な考えにつながることが多いということです。

 現在の日本で吹き荒れている新自由主義運動などの民族主義では、国家教育などは喧伝されているようですが、あまり平等は重要な要素ではないようです。この意味で平等を重視してきた社会民主的なリベラリズムとは正反対の方向にあるといえるでしょう。

 実際、多くの民族主義者は右翼的守旧派です。彼らは、私有財産制度の打破を目指すマルクス主義を目の敵にしてきました。私有財産制度こそが不平等の根源としてが指弾されることが多かったことを考えれば、彼らは保守であって、リベラルではありません。

 とはいえ、民族主義者は通常、個人の人権よりも「国家」というものを重視します。この点について考えてみると、ナチスが民族主義であったと同時に社会主義政党であったという事実が納得できます。現在の民族主義者たちは「愛国主義的国民教育」という合言葉をもっているように、多くの側面において多様な見解をもつという個人の自由をあまり尊重していません。

 また後述するように、BSE問題や遺伝子組み換え食品などに関しても、日本独自の安全基準を策定実施するべきだとしているようです。つまりこれは、経済活動に関しても、国民一人一人の自由な選択に基づく経済活動を制限するのは政府の当然の役割だと考えているという意味において、大きな政府を指向しているといえるでしょう。

 というわけで、民族主義は大きな政府とも小さな政府とも結びつくことが可能である、つまり経済活動の自由とは異なった次元を持つ座標軸だということができるのです。これについては後ほど、図表を使ってもっと詳しく説明することにしましょう。


事前規制から事後調停へ

 前述したように、自民党は、1970年代の田中角栄首相の時代に、都市部から吸い上げた金を農村部に回すことによる、「列島大改造」をくわだてました。都会から集めた税金によって、地方にも発展の資金を均霑(きんてん) し、日本全国の「均衡の取れた」発展を目指していたということができるでしょう。

 日本全国を平等に発展させるのだという考えは、なるほど国民の琴線に触れたことはうたがいありません。小学校しか出ていなかった彼は、当時「今太閤」とまで呼ばれ、ロッキード事件で収賄疑惑を受けて逮捕されるまで、国民の間では大人気だったのです。

 ロッキード事件の後においても、この分配ばら撒き型の政治は続きました。田中角栄の後継者として田中派を継承した竹下登首相は、「村おこし」運動と称して各地方自治体に対して一律に1億円をばら撒くという愚行に出ているのです。

 こういった農村政党としての流れが、自民党内の郵政民営化反対路線に続いていたのだといえるでしょう。民営化を憂えていたのは、いうまでのなく過疎地の人びとだからです。それを「ぶっ潰した」のが小泉純一郎です。

 彼は旧来の派閥による利権型政治を否定し、都市住民を中心にした支持を集め、自民党を都市政党へと転換させたといえるでしょう。それにともなって自民党の政治だけでなく、霞ヶ関の官僚の間でも事前規制を主だった手段とする規制型の大きな政府から、事後調停型の小さな政府へとむかう大きな意識の変化が生じているのです。

 戦後の日本の政治は、おもに事前の規制によって、各企業を直接に管理しようとする事前規制型だったといえます。なかでも金融機関の護送船団方式はつとに有名です。これは、もっとも船足の遅い、つまり体力のない地方金融機関をつぶさないために、各種の規制を都市銀行にも課すというものでした。

 その結果、日本の金融機関は、全体として足腰が弱ってしまいました。バブル処理にいたるまでには、金融先進地域である欧米の金融機関に対して、デリバティブを使った多様な取引の開発能力から、融資のための事業リスクの査定能力にいたるまで、大きな差をつけられてしまったのです。

 これは、この間にトヨタやソニーなどといった、国家規制によって保護されていなかった製造業が、世界的にますます発展を遂げてグローバル企業になったのとは好対照です。何かを市場で試してみる前から、原則禁止的に、あれはしてもいいが、これはダメ、などと、市場競争のプレイヤーでもない官僚が決めること自体が、自由で健全な企業活動の発展を阻害してしまうということなのです。

 しかし、事前規制をやめてしまうなら、おそらく多様な問題が生じることもまた明らかです。たとえば、一律に証券業者が可能な取引の種類を決めてしまえば、取引相手にとって危険な行為はなくなるかもしれません。それに比べて、自由な取引形態を認めれば、どうしても事後的には法律問題を含む多くの問題が発生するでしょう。

 さらに話を具体的にして、銀行業務について考えてみましょう。かつて銀行の株式投資信託販売が禁止されていた頃は、「投資信託は銀行が取り扱っているのだから、元金保障の安全な商品だと思っていた。」などという投資信託の購入者からのクレームなどは、そもそも発生しようがありませんでした。よって損害賠償義務の発生を主張するような法律紛争も、原理的に起こるはずがなかったのです。

 ここで、将来的に銀行が、未上場株式や商品先物などを含む、すべての金融商品の販売を許されることになったとしましょう。商品ごとのリスクは格段に異なっている以上、おそらくは説明義務違反や、過剰な売り込みがあったと主張する訴訟事件が相次ぐ可能性はけっして低くはないでしょう。

 事前に、何ができるのか、を決めてしまえば、そのほかのことはできないのですから、紛争の発生する余地はありません。事前に何ができないのかを決めた場合には、実際に行われたグレーゾーンの取引が、できないと決められたことにあたるのかどうかをめぐって、法律紛争が頻発だろうことは、自由な社会における、やむをえない必要悪だといえるでしょう。

 政府自民党や霞ヶ関の官僚はすでにこれを見越して、弁護士の合格者数を昭和時代の年間500人から、年間3000人へと大きく舵取りをしています。かつて1万人しかいなかった弁護士の数を今後は10万人にまで増員しようというのです。

 10万人といえば多いようにも思われますが、社会制度全体の事前規制型から事後調停型への

転換という大きな変化を考えれば、その程度の人数は最低限度の必要を満たすものでしかないでしょう。人類の科学技術が進歩すればするほど、経済活動、精神活動の多様性も増し、それが大きな社会問題となり、解決するための法律化が必要となるからです。

 たとえば、インターネットのサイト上での書き込みによる名誉毀損があります。ネット上では、誰にでも書き込みは可能であり、誰からも読める以上、名誉を毀損する表現がなされる可能性は、紙媒体しか存在しなかった時代に比べれば、飛躍的に高まっているのです。

 実際、アメリカのように典型的な事後調停型の社会では、弁護士の数は100万人にも上ります。これは人口300人に一人が弁護士であるということです。ひるがえって、日本においては人口1万人に1人が弁護士です。日本では弁護士費用が高すぎて自己破産もできないなどと揶揄されるのは、そもそも弁護士の数が少なすぎるからではないでしょうか。

 それはともかく政府自民党は、経済規制に関しては、ある意味で小さな政府を目指していることはまちがいありません。「間から民へ」という合言葉は、少なくとも法曹人口の増加という国策に反映されているといえるでしょう。

 もう一つ、政府自民党の変化をあらわしているのが、「外務省のラスプーチン」と呼ばれた、佐藤優の言葉です。彼はロシア通の外務省元主任分析官でしたが。鈴木宗男事件に関連して検察庁から逮捕され、500日以上も拘留された人物です。

 その著書『国家の罠』において、彼はいいます。鈴木宗男議員の逮捕は、そもそも国策捜査であった。内政的にはケインズ型の所得の公平な分配システムから、ハイエク型の自由主義へ、外交的には、国際協調主義から排外的なナショナリズムへの「時代のけじめ」であったのだと。

 このような視点が本当に正しいのかどうかは、正直なところ私にはそれほどはっきりしません。しかし、こういう見方をすることも可能であるということは重要だと思います。それこそ、官僚組織や政府内部での機運、あるいは常識というものが徐々に変化しつつあることを意味しているからです。


民主党の迷走

 さて2005年の衆院選挙では、衆議院を解散した自民党の小泉首相は「郵政民営化賛成か、反対か?」というわかりやすい表現で国民に訴えかけ、スローガンとして「改革を止めるな。」と郵政民営化を錦の御旗としました。それを国民に訴えかけるため、自民党は郵政民営化に反対する議員を公認からはずしたうえで、さらに彼らの選挙区に「刺客」と呼ばれた対立候補を擁立するという処分に出ました。

 これに対して、2大政党にさえなるべきだという国民的期待をもたれていた民主党はどのように対抗しようとしたのでしょうか。

 マニフェストが多く、論点がわかりにくかったためでしょう、結果的にいえば、有権者は岡田代表率いる民主党に対して厳しい判決を下しました。議席数は改選前の177から113に激減し、まさに大敗北を喫してしまったのです。これを受けて岡田代表は辞任し、前原誠司新代表が選出され、l現在は旧自由党の小沢一郎が党首となっています。

 さて、政権与党としての地位を磐石なものとした自民党に対して、民主党は今後どうするべきなのでしょうか。あるいは、もはや民主党の将来などはないのでしょうか。

 前述の日本経済新聞の芹澤洋一解説委員は、2005年9月21日の論説「大機小機」において、


1、小泉はリバタリアンの御旗を掲げて戦って、自民党に勝利を呼び込んだ

2、菅直人が民主党首であれば、社民リベラル対リバタリアンとなったかもしれない

3、しかし岡田民主党は改革合戦という理解しにくいスローガンで戦い、敗北した

4、とはいえ、自民党内には多くの守旧派が存在しており、ゆり戻しがある可能性は高い

5、そのときこそ前原民主党がリバタリアンな政策を打ち出して勝利することができる可能性がある


という内容のことを書いています。

 この見解はつまり、民主党は前原代表の下で自民党以上に小さな政府を目指すことによって、その将来が開けるということです。これは前原氏以上に小さな政府を掲げる小沢代表に当てはまるものです。

 そもそも自民党には、大きな政府を指向する利権政治にどっぷりつかった古参議員も多く、彼らは小泉首相の目指す小さな政府に対して、内心では反感を持っているはずです。2006年10月からの安部晋三首相は。

 郵政民営化反対を唱えて2005年の衆院選挙で自民党から追い出された議員たちの多くを、古巣の自民党に復党させましたが、これによって反動政治はさらに強固なものになるでしょう。

 これに対して、芹沢編集委員の意見は、民主党がリバタリアンな政治、つまりは小さな政府を目指すべきだということになります。民主党が自民党よりもさらに小さな政府を目指すことになれば、利権政治と大きな政府を目指す自民党との対立軸がはっきりして、民主党の将来が開けるというのです。

 これはいかにも、経済を重視する日本経済新聞社の編集委員らしい考えだと思いますが、そのようにことがうまく運ぶのかについては、二つの疑問があると思います。

 まず第一の疑問は、はたして今後の民主党が小沢代表のもとで、小さな政府を標榜して一致団結することができるのか、というものです。いいかえれば、前原代表が偽メール問題で退陣し、国民の党への信頼が危機的な状況にある中で、本当に民主党がリバタリアンな政策にコミットすることができるのかという疑問だといえるでしょう。

 そもそも民主党は社会民主党や新党さきがけのメンバーを中心として、鳩山由紀夫や菅直人を中心として1996年に結成された政党です。議員の中には旧自由党であった小沢一郎から旧社会党であった横路孝弘まで、さまざまな考え方の人がいるのです。

 彼らに共通する政治理念は全く存在しないといえるでしょう。旧自由党はたしかに自民党よりも小さな政府を標榜していました。しかしその反対に、旧社会党は明らかに政府による所得の再分配などの大きな政府を求めていたのです。

 「自民憎し」というだけで集合した議員たちが、小さな政府の掛け声の下にまとまるというのは到底ありえないように思えてしまうのです。それはいくら小沢代表が百戦錬磨の豪腕政治家であっても、容易に解消しない問題ではないでしょうか。

 このことがはっきりと見て取れるのが、2005年の衆院選挙時のマニフェストの内容です。8つのマニフェストのうち、一番目こそ、「衆議院定数80の削減、議員年金廃止、国家公務員人件費2割削減など、3年間で10兆円のムダづかいを一掃します」と小さな政府をうたっています。しかし、3番目には「月額16000円の「子ども手当て」を支給します」と大きな政府に戻っているのです。

 さらに6番目にいたっては、農業の「10年後の自給率50%実現のため、「直接支払い制度1兆円」をスタートします」となっています。これはつまり、農業に限っての分配型政治に逆戻りを意味しているのです。とてもじゃないが、小さな政府を指向したものとはいえないことは明らかです。

 ありていにいってしまえば、民主党は政治理念がないといわれる自民党以上に理念のない政党なのです。そんな民主党が近い将来に一本化した政治的なビジョンを持つことなど、到底できないように思われます。

 第二の疑問は、はたして2005年の選挙で自民党が勝ったのは小泉首相がリバタリアンな政策を公約に掲げたからなのか、というものです。いいかえるなら、小泉首相の個人的な人気が自民党の大勝を生んだのであって、国民は別にリバタリアンな小さな政府など求めていなかったのではないのか、という疑問が残っているのです。

 実際、朝日新聞社が選挙後に実施した緊急全国世論調査をみても、自民党が圧勝した理由のトップは58%で、「小泉首相が支持されたから」です。反対する議員に刺客を送るような、従来型の政治では予想できない行動をとる首相の、個人的な「小泉人気」が選挙に与えた影響こそが圧倒的に大きな勝因だったのです。逆にいえば、小さな政府を目指す郵政民営化などの政策は、それほど有権者に支持されていなかったといえるでしょう。

 この問題は根深く、かつ深刻です。私がみるところでは、日本人は以下に述べる「クニガキチント」の罠からいまだに抜け出していません。そして小さな政府を声高に求めているとは到底思われないのです。


クニガキチントの罠

  私はごく普通の日本人です。もっと具体的にいえば、1966年に富山に生まれて、東京で4年間の大学生活を過ごしました。それからアメリカにしばらく遊学、留学してから、今は岐阜の大学に勤めています。こういう私の両親は地方公務員でした。

 ですから、国家がさまざまな制度を、国民のためによかれと考えて政治的に実行するということは、高校時代まではしごく当然のことだと思っていました。大学にはいってハイエクなどに代表される自由主義的な、あるいはリバタリアンな政治哲学を知るまでは、むしろそういった考えの礼賛者でさえあったのです。21世紀に入った今でも、こういった後見主義的な考えは、日本全国の片田舎で地道にはたらいている公務員をはじめ、多くの年配の知識人にとっては当然といえるものだと思います。

 いわく、高齢になってもきちんと生活できるように年金制度は国が運営するべきだ。子どもを育てながら働く母親をサポートするためには、国や地方自治体がだれでも利用できるような保育施設をきちんと用意するべきだ。すべての家庭の子どもになるべく平等な初等教育を受けさせるように、国がきちんと教育制度を立案して実行するべきだ。高齢者の福祉の増進のために、国や地方自治体が特別養護老人ホームなどをもっとつくるべきだ、などなど。

 ここでのキーワードは、国民生活の向上のために、すべての制度を「国がきちんと」整えることです。本書を通じて、このような国家による個人に対する後見主義的な考えを、「クニガキチント」

の誤りと呼ぶことにします。

 私はこのような考えは、私たちの精神的経済的自由への脅威だと考えています。さらに悪いことには、このような国家主義(statism)は経済的な自由を束縛するだけではなく、物質的にも社会における集権的な資源の分配を肯定し、結果的に精神の自由の束縛へとつながる危険思想なのです。

 すでにハイエクは、社会主義が世界的に広く蔓延する以前の1943年に、その著書『隷従への道』を著しました。ここでいう「隷従」とは、支配者、資源の分配者という権力者に対しての、一般市民である人びとの奴隷的な状態を指しています。ハイエクは、すべての国家主義思想、社会主義思想は、必然的に資源を権力的に配分することを要求し、それは表現の自由を束縛する可能性が高いことに、強く警鐘を打ち鳴らしたのです。

 その後60年以上がたちました。ハイエクの指摘がまごうことなく正しかったことは、誰の目にも明らかになりました。精神の自由、表現の自由を維持するためには、それを行うために表現者が生存する必要があるのです。そして、そのためには生存のための食べ物や衣服と、表現するための紙やパソコンなどの物質が必要なのです。表現の自由は空虚な形而上の存在ではなく、肉体を持つ私たち一人一人が実行する必要があるものだからです。

 ソヴィエト時代のロシアが誇った芸術は、バレエ、クラシック音楽など、帝政ロシア時代のものばかりです。これだけでも、表現や芸術が花開くためには、いかに多くの質的に異なったなパトロンが必要かを物語っていると思います。

 まとめてみましょう。クニガキチントすべてを行うことは二重に誤っています。

 一つは資源が効率的に使われないという誤りです。公務員が民間企業と同じことをすれば、2倍の人件費や施設費が必要であることは経験則からよく知られています。業務が非効率的でも自分の給料とは関係がない公務員では、効率的に仕事をしようとするインセンティブがそもそも存在しません。経済効率を上げるための創意工夫をする必要など、そもそも存在しないからです。

 これに対して、非効率的な運営をNPOがすることはあまりないでしょう。NPOの資金は、親方日の丸ではないので、そもそも有限です。組織とそこにはたらく個人自体が、ほとんどの資金をできるだけ目的の実現に効果的に使うようなインセンティブを持っているのです。

 また、クニガキチント社会福祉をするためには、そういった活動に対して疑義をさしはさむ市民からも税金を徴収する必要があります。私にとっての障害者福祉の意義は別の人の障害者福祉の意義とは異なっていて、使うべきだと考える税金の量も違います。それを集権的・強制的に決定して徴収しようとするから、節税活動などのバカげた行為がおこなわれるのです。

 国家がやれば効率が悪いのです。社会福祉などはそれを重要だと思う人が、自らの責任と資源を持ってすればいいのです。なんでもお上がやってくれる、あるいはやるべきだなどという人は、根本的に誤っています。それならば、そもそも自分が率先して社会福祉のような意義のある活動をするべきです。どれだけの労力を差し出し、寄付金をする気があるのかを、自ら口先ではなく、行動で示すべきなのです。

 もう一つ、もっと重要なことがあります。それはクニガキチントいろんなことをすればするほど私たちの経済活動、そして自己実現の自由が失われていくということです。クニガキチント銀行業務をおこなうなら、どういった産業が優先的に融資を受けることになるのかを国が決定し、それを強制的に、あるいは税金からの補助金つきで実施することになります。クニガキチント義務教育をおこなうなら、ほとんど必然的にどのような内容の教育を受けるべきかを国家が決定し、それを強制することになります。クニガキチント保育をおこなえば、どんな境遇の子どもがいくらの保育料で何時から何時まで、どんな場所で保育されるのかを議会が集権的に決定して、それを税金の補助でおこなことになるのです。

 これらの国の決定からもれた人びとは、たとえば郵便業務や医療行為のように行為が禁止されるか、あるいは、住宅金融公庫を使わない納税者や私立学校での子女の教育を望む親のように、自らの収入を他人のために税金投入として、強制的に使わせられることになってしまいます。どちらにしても、私たちの精神活動の自由や経済活動の自由を侵害してしまうのです。

 クニガキチント医者や弁護士になれる人を決めてしまえば、医者や弁護士のおこなうような業務をすることで社会に貢献したいのに、国の基準からもれてしまい、それらをおこなうことを禁止された人たちの職業生活を通じての自己実現を阻害してしまいます。なぜある人が自らの責任でおこなおうとする社会的行為を、クニガキチント制限してしまう必要があるのでしょうか。

 詳しくは、また後で詳しく論じることにしましょう。

 とにもかくにも、日本人はクニガキチントの呪縛から逃れる必要があります。クニガキチントの縛りがある限り、私たちは急増する外国人労働者などを含めた、誰に対しても開かれた自由な社会をつくることができないのです。

 かつて中高生のとき、クニガキチントの忠実な信奉者であった私は、10代の終わりから20代をへてリバタリアンになりました。私のようなリバタリアンが信奉するリバタリアニズムとはどういう考えか、それはどこから来て、どこへと私たちをつれていくのか、それをこれから説明していきたいのです。ぜひとも、お付き合いください。


<