無政府への戦略と寛容の精神

 この章では、現代のリバタリアニズムに存在するいくつかの異なった論拠と、最終目標について説明をした後、私の考えるところの、リバタリアンな社会に向けての漠然とした行動計画を素描してみよう。

 リバタリアニズムをカテゴライズする方法は、これまでヴァージニア学派やシカゴ学派、ウィーン学派といった学統を重視するものが多いようだが、ここではアジア立命館大学のデイヴィド・アスキューと一橋大学の森村進による分類法に従うことにする。彼らの分類のほうが、論理的で、はるかに理解が容易だからである。

 

3つのリバタリアニズム

 リバタリアンのほとんどは、古典的な意味での精神と身体の自由、それに加えて私的所有権の絶対を擁護する。しかし、なぜリバタリアンな社会が望ましいのかという理由については、3つほどの学統が見受けられる。それらは、所有権論に基づくもの、合理的契約論に基づくもの、物質的な繁栄を指向する帰結主義的なもの、の3つである。順に簡単に概説してみよう。

 まず第1は、私的所有権論に基づくリバタリアニズムだが、これはロスバードやノージックなどに代表されるリバタリアンの論拠となっている。それはジョン・ロックの『統治二論』で展開される所有権論に基礎を置く。人間の一人一人はその身体を所有しており、そしてその身体の労働の結果としての生産物もまた、身体の延長上のものとして私有が正当化されるというのである。この私有化原理に基づけば、その結果がどのような莫大な財産の獲得につながったとしても、それは道徳的に是認されるのであり、政府による再分配はされるべきではないという社会倫理を要請する。

 なお、ロックは労働による所有権の取得が認められるのは、「他の人にも十分に同じようなものが残されている場合」であるという、いわゆるロック但し書きを付している。土地などは、肥沃で有用な場所は限られているため、この但し書きに基づいて土地の原始取得を否定する見解もあるが、地代が現代の富に占める割合は低く、GDPのほとんどは人間の知的・肉体的な労働によって作り出されている。よって私は大まかにいって、現代社会の所有権制度はロックの論理から肯定できると考えている。

 第2は、合理的な社会契約論としてのリバタリアニズムである。現実社会には多様な価値観が同居していることは、宗教の多様性をみるまでもなく、誰の目にも明白である。そのような多様な人びとが最低限度、社会秩序を維持するために合理的に納得できるのは、警察・裁判・国防のみを行う最小国家であるというのである。その他の一切の事柄には、何らかの道徳的な意義付けの対立が生じるだろうことから、強制力を持つ国家はそれらについては市民の自発的な活動に任せて、介入を控えるのが道徳的に正しいということになる。

 私は、これもまた納得できるものだと考える。たしかに我われの生活を支える最低限度の秩序維持には、強制力が使われることもやむをえないからである。これはおそらく社会契約説的な流れを受けているため、哲学者のディヴィッド・ゴシィエやジャン・ナーヴェソンなどが支持している考えである。日本でも森村進は、所有権論と契約論に基礎を置いた見解をとっていると思われる。

 第3は、国家活動は必然的に自発的な契約を抑圧し、財の配分をゆがませ、社会を貧しくしてしまうため、国家活動はできるだけ最小限度にとどめるべきだという、いわゆる「帰結主義的(consequential)」なリバタリアニズムがある。D.フリードマンがその典型だが、20世紀にソヴィエトが出現して以降、ミーゼス、ハイエク、ミルトン・フリードマンなどの多くの経済学者が、この財の生産と配分の非効率性の問題から国家活動を望ましくないとする、帰結主義的な論陣を張ってきた。

 

最小国家を目指すべきか、それとも無政府なのか?

 ほとんどのリバタリアンは最小国家主義者だといっていいだろう。彼らは、一般的な経済的・精神的な規制はできるだけないことが望ましいと考えるが、国家は警察・裁判・国防その他の最低限度の秩序の維持に関する任務を果たすべきだと考えている。国家という巨大な組織に限らず、一般的にいっても、ある組織が目的とする事柄が増えれば増えるほど、級数的に作業は複雑になり、効率は悪くなってしまう。とするなら、強制力を持つ国家は警察・裁判・国防などに限って活動するべきだというのは、非常に説得力のある考えである。この立場には、リバタリアニズムの中興の祖というべきロバート・ノージックを始め、またCato Institute Mises Instituteに関与しているような研究者の多くが含まれる。

 これに対して、無政府を目指す、より原理主義的なリバタリアンもまた存在している。所有権基底的な論拠ではロスバードが有名な無政府主義者である。前述したように、ロスバードは「自由の法典」の下に人びとが参集するべきだというような、極端な自由崇拝的な社会の構築を最終目標としていたのである。

 契約主義的なリバタリアンが、無政府主義に至ることはないようである。社会契約説はそもそも人びとの相互の自発的な契約が社会にあることを前提とするため、合意による強制力をもすべて排除する、つまり合意された国家を完全に排除するという主張にまではゆきえないからだろう。

 最後に、帰結主義者には比較的無政府主義者が多いように思われる。本書で説明してきたことだが、警察活動や裁判活動はこれまで考えられてきたように強制力を持つ国家のみがなしえる行為ではないし、いわんや国家が行うことが効率的であるようなものでもない。問題となるのは国防だけである。

 

多様な意見の違いを超えて

 このようにリバタリアニズムには、その道徳的な基礎付けにおいても、最終的な目標においても多様な考えが存在している。お互いに批判しあっていることも珍しくない。とくに政治的な態度については、政党政治を完全に否定しようとする人たちもいれば、リバタリアン・パーティなどを通じて自由を唱道してゆく必要を説く人たちもいる。

 この点、私の考えでは、どのような方法でもかまわないし、互いに批判する必要もない。

 残念なことに、多くの宗教においてそうであったように、異端審問は異教徒に対しての迫害よりも激しくなる傾向がある。おそらく近親憎悪というのは、無関係な他人よりも気に障るものなのだろう。リバタリアニズムという「自由」を重視するセクトにおいても、これは当てはまっているようである。

 しかし現実的に考えれば、福祉国家を標榜する日本政府は、私の所得のおよそ4割を税や社会保障費として徴収している。つまり、少なくとも生涯賃金の4割は国家に取り上げられているのである。そして国家は、他国からの輸入品に対する関税や輸入の禁止、さらに薬事法や医師法、弁護士法、その他のあらゆる規制において、サービスの価格を高止まりさせてもいる。その効果ははっきりとはしないが、2割を下回ることはないだろう。

 政府が警察、裁判、国防のみであれば、2005年での現状では、警察費用が3000億円、裁判費用が3300億円、国防費用が5兆円というレヴェルにとどまるはずで、これは私たちのGDPの1%を超える程度に過ぎない。

 これだけ考えてみても、私たちは物質的に本来の潜在力の半分の豊かさで生きることを余儀なくされているのである。リバタリアンにとっては、これらの多様な形で存在する政府規制、そのなかには直接的・間接的なものがあるが、もちろん税金も社会保障費も、すべてが見直しの対象となる。

 無政府社会が本当に実現するとするなら、それはロシア革命などのような暴力的な形であるはずがない。そもそも暴力と物理力に支えられた政府の廃絶が目標である以上、それは暫時的に次第に人びとの合意となってゆく必要がある。すべての形の規制の撤廃や税の逓減は我われの自由を高め、より豊かな社会を作るというコンセンサスが次第にできてゆくというシナリオ以外には、強制的な国家を廃止することはできない。

 リバタリアン・パーティなどのような政党による自由の希求も重要だろうし、規制は非効率的であることを経済学が示すことも必要である。また自由そのものの価値を謳う政治哲学の普及も不可欠だろう。これらのすべての活動があいまって、次第に規制のない自由で効率的な社会を作ってゆき、最後に納得できるのであれば、人々は国家を廃止することに合意することになる。 

 これはちょうど現代社会において、民主主義という言葉自体がすでに「正義」であるという響きを持っているのと同じである。ハンメルは無政府社会の建設と防衛には「自由の意識高揚という社会資本」の充実が重要であると述べているが、これは「民主主義」という政治形態よりも、強制を含まない「無政府主義」のほうが望ましいのだという人びとの意識改革の必要性を説いているのである。

 有史以来、王政が主流であった人間社会が、近代以降は啓蒙思想などの影響の下に市民の思想は次第に変化してきた。それが、現代社会における民主主義への絶対的な帰依となって形成されるまでには、少なくても300年という時間が必要であった。現在、民主主義がどのような理由で支持されているにしろ、それは政党を超えて、ほとんどだれもがそれを認めているという状態にある。もちろん、投票方式や権力の分立のあり方をめぐっては、民主主義的な政治にはいくつもの相違点が、今も解消しないままに残されている。

 仮に無政府主義がそのような状態にいたるとしても、同じように少なくとも数百年、いや数千年はかかるだろう。論拠においても、実際においても論争はなくならない。そして国家の廃絶にいたるまでの道のりは長いものだろうが、身近な政策については、どの政策についても可能な限り国家の干渉の度合いを下げるだけの単純なものである。

 そもそも、リバタリアニズムは異なった価値観を持つ多様な人びとの共存のための構想であり、単一の国家目標を人びとに押し付ける社会主義とは異なったものである。ジャコバン派を始め、左翼運動の革命家の運命は、同僚によって粛清されてきたのが歴史の常である。これだけ廃止されるべき国家活動が肥大化している現代において、ロベスピエールやスターリンのような内部批判や内部抗争に走る必然性はないし、そういった「権力抗争」はかえって有害だろう[1]

 

 

 


付論1:犯罪の量刑と応報感情、一般予防

 

 量刑をめぐっては、近代啓蒙思想以降、いくつかの対立的な見方がある。本書の無政府主義の文脈において重要な人物たちについては、次の一覧表を見ていただきたい。

 

 

 

 量刑(賠償額)

  応報感情 

   一般予防

 トルストイ

×

×

 バーネット

 ロスバード

○(?)

(重罪○)

 フリードマン

1/P

 

 トルストイは犯罪を罰する必要はないという究極の人道主義を掲げた。しかし、罰則がないのであれば、被害者の応報感情は満たされないし、一般予防効果もない。これがあまりにも非現実的であると感じられる理由である。

 これに対して、リバタリアン法哲学者であるバーネットは、刑罰は犯罪を賠償するだけでよいと主張する。これは現実的な意味での、もっとも人道主義的な見解だろう。彼の論拠は法学者らしく、犯罪者が無実である可能性を考えること、犯人が自己の処罰確率を低く見積ったり、将来の処罰をあまり重視しないことによって、抑止刑が効果的であるか疑問視されること、等である。

 この場合、応報感情は満たされることはないが、そもそも応報感情自体を他人への加害行為であるとして否定的に見る啓蒙思想、人道思想からすればこれは是認される。一般予防効果は小さなものとなる。犯罪者が処罰されない可能性がある以上、有罪判決を受けた場合にのみ損害額と同じ賠償ですむのであれば、明らかに予防効果は低くなってしまう。

 ロスバードは、量刑は損害額の倍額であるべきだという。これはたしかに、直感的な応報感情には適合するかもしれない。もちろん、応報感情というものは個人差が大きいため、2倍ではなく、3倍であるべき、あるいは同額の賠償で十分だという人もいるだろう。しかし、2倍というのは一つの目安にはなる。しかし、この2倍という賠償額では、窃盗事件などの検挙率が20%程度である現実からすれば、一般予防には十分ではない。しかし、殺人、放火などの重罪については検挙率が十分に高いため、一般予防にも十分であろう。

 フリードマンの意見は、ベッカーからベンソンまでにも採用されているように、経済学者としてはもっともスタンダードな抑止刑論である。賠償額は、犯罪額を処罰確率で除したものになるが、これによって犯罪行為の利得額とその行為に対する刑罰の期待的賠償額を同じにして、一般予防を図ろうとするのである。この場合、窃盗などの軽犯罪ではPの20%程度と値が小さいため、おそらく賠償額は5倍以上にもなり、通常人の応報感情を超えたものになるだろう。反面、殺人や放火などでは、処罰率が1に近いので、応報というにはむしろ少なくなるかもしれない。一般予防については、当然ながら、どのような形態の犯罪に対しても最適量になる。

 なお、第4章でも指摘したことだが、ある犯罪の賠償額に、他のすべての犯罪の捜査費用E、さらには警備会社との契約費用のすべてを含めるとしよう。すると警備費用や捜査費用が無料になる以上、原理的には、被害者は無限の捜査を求め、契約者は無限大の警備を求めるため、処罰量は上限に達してしまう。つまり、処罰を受ける犯罪者の全労働賃金に等しくなる。この場合、すべての犯罪への一般予防効果は最大限に発揮されるだろうが 同時に、ささいな窃盗でも殺人でも終身労働刑を科せられることになり、犯罪と刑罰の比例性に反した、たいへんに非人道的なものになってしまう。

 よって、犯罪者から捜査費用を賠償額に含めて徴収するとしても、その捜査の量は犯罪の被害額に相応した程度のものでなくては、衡平を欠いた制度になって安定化しないだろう。

 

犯罪者の能力の差の存在

 ここまでの議論では、犯罪者は基本的に同質で、全員が同じ確率で処罰されると考えてきた。しかし、現実には犯罪者のなかにも能力の差があり、すぐにつかまって処罰される犯罪者と、ほとんどつかまらない優秀な犯罪者がいる。

 処罰の量を、被害額に平均的な処罰確率の逆数をかけたもの、つまりD/Pにするとしよう。すると、平均よりもつかまりやすい犯罪者はより捕まりやすいため、犯罪からの期待利益が期待損失を上回るため、犯罪を思いとどまるだろう。すると、犯罪者は優秀な人間ばかりになって処罰確率は低下し、結果として、一般予防に適切な処罰量は上昇してしまう。理論的には、このような過程は永遠に続くかもしれず、その結果、やはり処罰は極限に達して、ささいな窃盗に対しても終身刑や死刑が科せられることになってしまう。

 経済学になじみのある人は、この問題が、保険における逆選択(adverse selection)の問題と同じであることに気づいただろう。損害保険においても自分が事故を起こしやすいことがわかっている個人が多くを占めれば、事故を起こさない個人は契約しなくなる。次第に契約者は事故を起こす人ばかりになってしまうのである。

 とはいえ、この問題はリスク細分型の保険数理と同じように、原理的には、各犯罪者ごとの何らかの特徴から個人の処罰確率を大まかに計算して、それに応じた量刑を行うことによって、ある程度は回避することができるはずである。一般予防のためには、各個人に応じた量刑が最適となる。

 しかし、この方法には倫理的には大きな問題が残ってしまう。処罰されにくいだろうと予測される資質をもつ犯罪者が、そうでない犯罪者よりもより過酷な量刑を受けるということが、どのような応報感情や倫理感覚から許されるのだろうか。たとえば、端的にいって、一般知能の高い個人は巧妙さによって、運動能力の高い、あるいは若い犯罪者はよりすばやい行動によって、そうでない人たちよりも逮捕処罰を免れやすい。この場合、彼らにはより厳しい量刑に処すべきだということになるが、これは社会的な制度として納得できるのだろうか?私はこの問題をオープン・クエスチョンとして読者に問いたい。

 なお、この分析は客観的な処罰確率が、犯罪者の主観的な処罰確立と一致しているという前提で行っているが、これらが異なったものであったとしても、両者間に正の相関が存在する限り、数学的には同じ分析が成り立つ。

 

 

付論2:概念としての「強制」と「不法」の感覚

 

「強制」の意味

 我われが、あることを他人に強制するという場合、それは当然に不法なものであるという感覚を伴う。しかし、ではそもそも、強制というのはどのようなことをいうのだろうか。この哲学的な問いは、ノージックやロスバードの自由論の基礎付けともなった重要な問題である。

 第一に思いつくのは、物理力を使って牢獄に閉じ込めたり、あるいはある種の手術をその意思に反して行うという、もっとも原始的な意味での物理的強制行為である。これは相手の行為を必要としないようなものに限られる。なぜなら、強制される人の行為が必要な場合には、物理的にその行為をさせることはできないためである。たとえば、ものを食べさせる、歩かせるといった強制行為は、通常、そうしないとある種の苦痛を加えるというような条件を伴う。

 第二の強制の類型は、まさにこのような被強制者の具体的な行為を必要とするものである。たとえば、苦痛を与える、あるいは殺すというような不利益を与えない代わりに、働かせる、あるいは金銭や物品を供出させるというのがその典型である。

 この場合、被強制者は具体的な行為をすること自体には納得している。この意味では、私がパソコンを買うのと同じようにも考えられる。パソコンの購入に際しては、私は金銭を支払うという不利益の代償として、パソコンの所有権というプラスの効用を与えるものを取得する。同じように、私が強盗にお金を渡す場合、被強制者である私はお金を支払うという代償の代わりに、身体に危害を加えられないというプラスの効用をえる。このように考えるなら、強盗による強制的な金銭の強奪は、私のパソコンの購入と同じようにも考えられるだろう。

 しかし、もちろんこの二つの行為類型が同じであると評価する人はいない。両方のケースにおいて、たしかに金銭を支払うという私の動機は自発的なものだが、その動機の形成理由は、パソコン購入の場合は売り手のもつパソコンを買いたいという「積極的」な物であるのに対して、金銭強盗の場合には強盗の攻撃による損害を回避したいという「消極的」なものである。

 さらにこの両者の違いを分析的に考えてみよう。

 私は、仮にパソコンの売り手が存在しなかったら、もともと所持していた金銭をそのまま持っていたはずであり、損失はない。そして、パソコンの売り手が実際にいたからこそ、持っていた金銭以上の価値を持つものを入手できたのである。

 強盗の場合、強盗が現れなかったら、私はもともと所持していた金銭をそのまま持っていただろう。この点はパソコン購入の場合と同じである。ところが、強盗がいたために私は危害を加えられないことの代償として金銭を失ったのである。私は何も得るものがなく、ただ単に金銭を失ったのだと評価できよう。このように強盗の直接的暴力によるマイナスの効用を避けるために、自分の財産を渡すときが、行為が「強制」されていると評価される場合なのである。

 

物理力による強制と心理的な強制

 パソコン購入と強盗とを比較した場合の強制の意味は明らかだが、この場合、強盗は物理的な力を使って危害を加えるのだという点に着目してみよう。物理力は、その危害能力を高めるために刃物や拳銃などの凶器が使われるのが通常であるから、状況がはっきりしていることが多い。

 これに反して、私が好感を持っている人物がいるとして、その人物からの軽蔑や侮蔑を買いたくないため、あるいは敬意を受けたいために、ある行為を「仕方なく」したとしよう。たとえば、渋谷の交差点で交際相手の女性と一緒に歩いていると、募金への献金を呼び掛ける人たちに募金箱を突き出された場合などが考えられるだろう。この場合も、私は心理的には選択肢がなく、「強制」されて募金させられたと感じるかもしれない。

 そして、自分の評価が下がるというマイナスの効用を避けるために、金銭を支払ったという意味においては、強盗の場合と募金の場合は同じように評価することも可能である。しかしこの場合には、明らかに私は物理力によって直接に脅されているのではない。よってリバタリアンが定義する強制である、「物理的な」強制がなされていると考えることはできない。

 また別の例について考えてみよう。私が職場において、他の同僚がすべてやっていることを拒否したとしよう。たとえば、職場での歓送迎会の幹事を持ち回りでやっており、自分の番になったときにそれをやらないというようなケースである。このような場合には、それは職務とはいえないが、同僚たちによって心理的には強制されていると多くの人が感じるものだろう。

 明らかに、多くの社会学者たちが論議する「権力」にはこのような社会的な権力、あるいは強制力が含まれている。しかし、無政府資本主義者たちは、このような社会的な「権力」や「強制力」を認めない。なぜなら、それは他人からよく思われたいという同調的な欲求を強制力の源泉と考えるものだが、精神的に自立した自由な個人には、本質的にはそのような同調の必要はないからである。

 もちろん、社会での同調性を大きく欠けば、長期的な労働契約を拒否されるなどの、多様な不利益が生じるだろう。だが、それらの不利益はすべて消極的なものであって、積極的・物理的に否応ない性質の不利益が与えられるわけではない。別の資質によって不利益を補うこともできれば、さらに極端にいえば、どこか別天地にでも行って自給自足の生活をすればいいのであって、回避できないとまではいえない。

 それほど極端な場合ではなく、もっと現実的に考えても、社会の中には多くの異なった意見が存在している。茶髪のままで働きたい若者は一部上場企業の多くからは採用されないだろうが、それでも、茶髪をむしろ好ましい自己表現だと考えるようなスタイリストや芸能人、アーティストになるという道も十分に残されている。

 おそらくもっとも曖昧なケースはつねに、職場の同僚や配偶者からの心理的な圧力を受ける場合だろう。職業生活にしても、抽象的にはどのような職場もやめることが可能であり、配偶者にしても、いつでも離婚してやり直すことは可能である。しかし、現実には一ヵ所での職業生活が長くなればなるほど、会社や組織に特有の知識や技術が蓄えられるため、転職をすれば全く役に立たないことから大きな収入の減少を避けられなくなる。同じように、婚姻生活が長ければ離婚は大きな不利益をもたらすだろう。典型的には子どもの養育にもマイナスだろうし、新しい生活環境を構築する必要にも迫られ、同時に自分の婚姻市場での魅力は年齢的にも下がっているだろう。

 これらの長期的な関係においては、関係の否定には大きな犠牲が伴うため、その関係を維持するために「したくないこと」をしなければならない。これが心理的な意味での「強制」を構成し、実際に我われの感覚でも強制的だと感じられる原因なのだろう。

 しかし、これらを権力と呼んでしまっては、国家の持つ警察や軍部などの物理力に裏付けられた権力や、あるいは強盗の行う暴力に裏付けられた金銭の強奪と、配偶者のご機嫌取りのための皿洗いが同じ「強制」行為であることになってしまう。それは純粋に抽象哲学としては誤りとはいえないかもしれないが、少なくとも本書で検討した、「権力国家」を廃止した無政府資本主義社会という概念を無意味なものにする。

 なぜなら、そこでは国家は存在しないが、財やサービスの生産組織としての会社などはおそらく間違いなく存続しており、会社組織などもまた権力的なものであるという社会学的な表現によれば、国家ではない権力が依然として存在していることになるからである。あるいは妻が夫に対して持つ権力なども存在するなら、権力や強制の概念はあらゆる人間関係が持つものという、ほとんど意味のない概念へと拡散してしまうのである。

 よって、本書でいう強制力や権力は、物理力を持って裏打ちされたもののみを指すが、それは我われの内心の自由が、他人に対する感情の自由と取り扱いの自由を含むものである以上、自由主義的な社会という概念ともっとも整合的な「強制」概念なのである。

 

「不法」の感覚の進化の社会厚生的説明[2]

 話をやや戻すが、パソコン購入の取引は合法的であって誰もが望ましいものだと感じるのに対し、強盗の場合は誰の感覚からしても、それは「不法」であり、許されるべきではない。しかし、我われがこのような感覚を持つ理由それ自体は自明ではない。

 以下に、両者について厚生分析を行ってみよう。

 パソコン購入の場合、私はその価格分の金銭を支払うが、私のパソコンに対する主観的な価値は価格以上であるはずである。なぜなら、私は自発的にパソコンを購入したのだから、金銭代よりもパソコンの所持・利用に大きな価値を見出したはずだからである。反対に、パソコンの売り手にとっても、自分の持っていたパソコンよりもその代金のほうが大きな価値を持っていたはずである。売り手もまた、自発的にこの取引に同意しているからである。とするなら、このパソコンの購入という取引は買い手と売り手の両方に効用の増大をもたらしたといえるだろう。

 次に強盗について考えてみよう。強盗は私を脅すことによって、金銭、あるいは物品を得る。強盗が金銭を得た場合、私の損失と強盗の利益は帳消しになり、社会厚生上は変化がないといっていいだろう。しかし、強盗本人はこの強盗行為という、本来的にまったく生産的ではない行為を、自らの時間と労力を費やし、反撃に遭うリスクを犯している。同時に、被害者は身体的な恐怖や危険を感じる。とすれば、社会全体としては、強盗が強盗行為を行った分だけ、貧しくなっている。

 さらに2つの付加的な要因がある。

 まず第1には、強盗がものを強奪した場合について考えての分析である。その品物の価値は私にとってのほうが強盗にとってよりも高いだろう。もし仮に強盗の感じる価値のほうが高いという稀有なケースがあったとすれば、そもそも彼は私に品物を売ってくれるように売買を提案すればすむことであり、少なくとも理論的には私に対して強盗行為をはたらく必要はない。ほとんど場合、強盗や窃盗は手に入れた品物を換金するが、この場合、新品に比べればはるかに小額にしかならない。

 とすれば、強盗が金銭以外の品物を強奪した場合、金銭を強奪した場合よりも、もっと大きく社会厚生は低下しているといえよう。金銭は少なくとも強盗のプラスと被害者のマイナスが完全にキャンセルするが、品物の主観的な価値はその所有者にとって最も大きいだろうからである。

 第2には、強盗活動の与える長期的な社会厚生の変化についてである。金銭の強盗行為が一回だけなされた場合、その社会的な純損失はほとんど存在せず、強盗の強盗行為という労働と、被害者の恐怖や不快感だけである。しかし、長期的には社会の多くの構成員が強盗行為に備えて、戸締りを確認するようになったり、防犯設備を購入したり、あるいは自衛のために拳銃などを購入したりするだろう。

 これらの防犯活動のすべてが、社会にとっては単なる損失である。なぜなら、これらの活動や設備は、本質的に誰の効用をも増加させないからである。とするなら、長期的には、犯罪行為は誰もその被害者になりたくないために、犯罪を抑止するために費用や労働を必要とし、それは直接的に負の効用をもつ。よって、社会厚生としては、犯罪行為が実行される、あるいは犯罪が存在することは、その一回的な行為のもたらす社会効用のマイナスを大きく上回る規模で低下することになるのである。

 よって、「不法」の道徳的な感覚の進化は、部族内で社会厚生の明らかな低下をもたらすものに対して生じるようになったのだろうと推測される。これは、一般的に我われが、犯罪、あるいは不法行為であると感じる行為が、なぜ禁止されるようになってきたのか、あるいは、なぜ犯罪として処罰の対象とされるべきだと我われが考えるようになったのか、を説明している。

 確認的に指摘するなら、窃盗もまた犯罪として禁止されている。これは被害者の認識のない金品の窃取を意味しているが、まず窃盗本人の窃盗行為自体が時間と労力を必要とすることと、それが被害者にとって望まれていない以上は、長期的には予防行為という労働が必要となることになり、それは防犯費用となって大きな社会的な損失を意味する。よって、窃盗もまた「不法」であり、罰せられるべき犯罪となるのである。

 

正義の入札は強盗行為なのか?

 さて話を「強制」の定義に戻そう。無政府社会において、対立する正義は貨幣によって入札され、より大きな支払能力のある集団の正義が、それを受け入れる集団の正義に優先することになるというのが、多元的な正義の存在の「適正な手続き」である。

 ここで、私が支払う側の集団の一員であるとしてみよう。私の感じる正義を実現するために、それに反対する人たちに金銭を支払い、それによって「なんとか」彼らに受け入れてもらっている。とするなら、彼らはその存在によって、あるいは究極的にはその物理力という裏づけを持って、私に「無理やり」金銭を支払わせているのではないのだろうか。

 なぜなら、仮に私の集団がその金額を支払わなかったなら、彼らは、彼らの正義を押し通すという手段に出るという、脅しをかけることができるのである。たとえば、死刑の廃止についていうなら、彼らは死刑を実行するという正義感を持って、その物理力を行使すると宣言することができるだろう。その場合、彼らの存在はそれ自体が脅しとなって、我われから金銭を脅し取っていると評価できるのではないだろうか。

 このような認識はある意味で正しい、と私は考えている。しかしそれでも、他に採りうるオプションに比べて、よりマシな妥協案なのである。二つの異なった正義の基準を持つ集団が並存する場合、暴力的な解決はもっとも単純な方法だが、それは被害が大きく、だれもが避けたいと考えるとしよう。(実際には、戦闘を好むタカ派の人間はつねに存在しており、それが戦争を引き起こしてきたのだろうが。)

 直接的な暴力での対決を避けるためには、両集団から事前に納得される、何らかの合意された手続きが必要となる。その典型的な一例として、たとえば現在のような民主的な有権者の多数決による政治システムがある。

 しかし、考えてみてもらいたい。これは多数者が何の代償もなしに、少数者に正義基準を押し付ける制度なのである。明らかにこれは少数者の正義感を蹂躙するだけでなく、さらには少数者集団のなかでさえもその正義感の実行を許さないシステムである。それを、現在の我われは独裁的な政治決定と比べて「望ましく、すばらしい」解決法だと自賛し、次世代の子どもたちに教育し続けてきているのである。

 これに対して、正義のオークションは、第一に少数者集団の中では彼らの正義を実行できる点で既存の画一的な政治システムよりも優れている。さらに、対立が生じた場合にも、何らの補償もなしに一方の正義を押し付ける政治システムに比べて、少なくとも正義を押し付けられる側には、彼らが納得できる金額の補償がなされる点でも、政治過程よりも優れているのである。

 もちろん、仮に支払いをしたくないのであれば、相手から支払いを受けて、その正義を受け入れることも可能である。この意味では、オークションという制度自体がどのような集団に対しても、対照的で平等な取り扱いをしていることにも留意してもらいたい。

 まとめてみよう。そもそも対立する集団の構成員がいなければ、問題は発生しない。そしてそのような軋轢のない状態は、まさに誰にとってもユートピアだといえよう。この場合、金銭のやり取りは存在せず、したがって、上述のような「強制」にまつわる問題も生じない。

 しかし、現実には多様な価値観が並存している。この場合、暴力を回避するためには、なんらかの手続きによって、異なった正義の適用基準を定める必要がある[3]。そして、正義のオークションは、我われが考えうるなかでも、もっとも小さな軋轢で決着する制度だといえよう。なぜなら、対立集団がいったんこの手続きに納得したなら、第7章で説明したように、その両方が納得できる解決がかならず与えられるからである。

 もちろん、私が誤っているのかもしれない。抽象的には、これとはまったく異なった解決法が存在するのかもしれない。しかし現在のところ、私はそのような代替案を思いつかないし、聞いたこともない。よって本書は、正義のオークション制度がもっとも望ましいと主張する。
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[1]  既存の国家を無政府社会にすることは無理であり、むしろ、大洋に浮かぶ無数の島のひとつ、あるいは複数を富豪や会社が買い上げて、無政府社会とするほうが安上がりで、かつ現実的かもしれない。また別のものには、海洋上に人工島を浮かべて、その連合によって主権国家を形成し、さらには無政府社会を作り出すという構想もある(seastead.org)。これもまた、実現可能性の高そうな話であり、興味深い。

[2]  この分析は基本的にフリードマン『自由のためのメカニズム』p.243、あるいはより詳細に”Law's Order”で展開されている犯罪の経済的分析に基づいており、それに進化論を適用したものである。

[3]  実際、この問題は私有財産制度そのものにも当てはまるだろう。私有財産制度を否定する試みは多くの社会で試されてきた。このような根本的な対立は本書で考えるような、法のオークションによる集団間の軋轢回避の基礎をも否定する。本書では社会進化的な視点から見て、大枠での私有財産制度は合意されていることを仮定している。