8、国家なき社会における人権保障

 

 無政府社会では、現在一般的に考えられている「人権」はより広く保障されるのだろうか?それともそのような「人権」は、そもそも国家の保護と国民への強制によってしか促進されえないのだろうか?この問題を考える鍵を、まず憲法の成立に関しての歴史とともに考えてみたい。

 

憲法の存在しない社会と動物の権利

 社会契約説の影響を受けたフランス革命の人権宣言、アメリカ独立宣言などでは、人間には前国家的な権利があり、それは国家によって奪うことはできないとする、いわゆる天賦人権説を謳っている。そして、国家がそれを無視して人権を蹂躙した場合には、人権の回復のために革命を起こし、新たな政府を樹立する権利があるともいう。そして、政府の横暴によって人権が抑圧されることを防ぐために、統治は憲法に基づくべきだとする「立憲主義」が採用されているのである。

 たしかに、王政であれ、民主政であれ、その時どきの政治権力は、表現の自由や職業活動の自由などの国民の自由を奪うことが考えられるため、憲法を制定することによって、国民の自由の範囲が時の政治的権力に不当に狭められないようにするという考えには傾聴すべきものがある。だからこそ、立憲君主制、立憲民主政というのは現代政治の主流を成しているのだろう。

 この意味で、政府というのは国民のもつ人権を抑圧するかもしれないという潜在的な敵対者として描かれているといってよい。それゆえに、政治活動によっても制限することのできない権利が憲法に明記されてきたのだ。

 しかし無政府社会では、人権を抑圧する可能性のある「政府」は存在しない。よって、現在の立憲主義国家が制定しているような、人権保障を謳う憲法は存在しないことになる。通常、憲法はまた、国家の基本的な統治構造や国会意思の決定方法、憲法改正の方法などを定めているが、これらも当然に無政府社会には不必要となる[1]

 おそらく、我われが現在尊重している人権は成文法としてではなく、むしろ人びとが共有する「感覚」あるいは「価値観」として存在し続けるはずである。それは現代のイギリスの不文憲法よりも、はるかに曖昧模糊としたものとなる。たとえば、リンチのような私的な刑罰が刑罰として許されるべきかどうか、あるいは現在の中国やシンガポールなどで行われている苦痛を伴う刑罰が許されるべきかどうか、さらには児童や動物の虐待などは、その時点時点における我々の人権感覚の発展に依存した議論がなされるのである。

 前述したように、無政府社会では法もまた各仲裁会社の私有財産となるため、社会全体の法というものはない。多様に存在する異なった成文法とその具体的な実践は、仲裁会社および警備会社によって作り出され、維持されることになる。

 社会契約としての「人権」は、現在のように意思表示がまったくできない重度の身体障害者は当然のこと、あるいは高等類人猿、クジラやイルカ、その他の多くの知的な動物にまで及ぶかもしれない。つまり無政府社会においては、麻薬禁止を望む人々と警備会社が彼ら自身の資金の拠出において、麻薬解禁派とその警備会社から麻薬不使用の契約を取り付けるなら、麻薬は禁止され続ける。これとまったく同じように、現在はまったく認められていない動物の権利も、社会の大多数がその権利性に同意して、反対派をも言論や金銭取引で納得させるというのであれば、それは社会において認められた権利になるのである。

 この問題はあまりにも重要であり、社会哲学のほとんどすべてにかかわる。

 人間でも意思表示のできないほど重度の身体障害者はいるし、彼らよりも明らかに知的、あるいは運動能力においてすぐれた高等霊長類がいる。しかし、我われは前者には人間としての権利を認め、後者には認めない。現在はそれはDNAその他の明確な線引きが可能だが、未来において遺伝子工学が十分に進み、相互に交配できない人間集団へと人類が分化した場合や、人間と同様の知性を備えた生物、あるいは人間とその他の動物の多様なハイブリッドが生まれたときにはどのように考えるべきなのだろうか。

 この問題にも無政府主義の法理論は、すでに答えを用意している。それは、社会内での経済取引によって合意されるレヴェルで、各個人やその代理者が警備会社と契約をして、その主張する権利を守ってもらうというものである。おそらく各種の存在には、その知性や運動能力に応じて形成される、おおよその社会通念に合致した形で各種の権利が与えられるだろう。いかなる存在であれ、十分に成長したときには契約を理解し、他の人間と分業して暮らすことができるのなら、それは契約に伴った権利の主体でありうる。まれには物理的な闘争が引き起こされるかもしれないが、ほとんどの存在は現在のように平和のうちに自らの生涯を生きることができるのである。

 

国家対犯罪者という対立図式の解消

 無政府社会のすばらしい点の一つは、いわゆる「人権弁護士」が真に人権弁護士でありうるということである。現在の左翼的な人権弁護士に少なからず存在する特徴には、「国家というものは絶対的人権抑圧への傾向を持っており、その典型的な発露が犯罪の被疑者への警察機関の横暴である」という認識がある。

 たとえば、彼らは被疑者の人権擁護のために、自白の強要がなされないよう被疑段階での取調べ・調書の作成にも弁護人を立ち合わせるべきだと主張している。また、現状では被疑者の任意の取調べが、半強制的、あるいは強制的になっていることが、刑事訴訟法の脱法状態であると指弾する。

 私もまた、これらの主張は全く正しいと感じている。典型的に左翼の法律家はこのような状態を解決するために、「国家官僚」をして、彼らの主張に従った形の立法を造り、関係官吏に運用させようとする。しかしこの発想は、そもそもインセンティブレベルでの問題を抱えている。

 国家は犯罪者を検挙・処罰することを要請されており、それによってのみ国民やマスコミからの賞賛と存在の正当性を得ることができるが、絶対的な少数者である犯罪者の人権を守ることからは、ほとんど支持を得られないからである。もしもあなたが、無実の罪の被疑者になったときに備えて人権擁護を考えておくべきだ、というのであれば、それは正論ではあるが、おそらくあまりにも迂遠な経路の論理だろう。つまり、取調べに当たる警察機構に被疑者の検挙・取調べと、その人権擁護の両方を要求すること自体が、そもそも矛盾する要請なのである。

 これに対して、無政府社会の警備会社には確かに人権擁護のインセンティヴと、事件の真相解明へのインセンティヴが存在する。被害者の警備会社は事件の犯人を検挙し、取り調べて、処罰するために被害者から契約を取り付けているのであり、そのパフォーマンスが低ければ、会社の信用度は下がることになる。

 反対に、被疑者の警備会社は被疑者が無実であることを前提として、その人権を手続き的に擁護するために契約を受けているため、被疑者の取り扱いが適正なものであるように被害者の警備会社に強く要求することになるだろう。

 かつてモンテスキューは『法の精神』において、政治的な自由は権力の分立があってこそ実現されると主張したが、異なった警備保障会社・仲裁会社こそが権力の真の分立なのである。現在のような、司法・立法・行政の三権分立というのは、理念はともかく、現実には破綻している。このことは、警察権力の現状追認を常態とする現在の最高裁判所の判例の歴史が雄弁に物語っているだろう。

 ともかくも無政府社会には、人権を抑圧するためのビヒモスとしての国家と警察権力は存在しない。人権派の法律家は、被害者の人権を守るための犯罪の糾明の可能性と、被疑者の人権擁護の程度の間に存在せざるをえない明らかなトレードオフについて考える必要性に迫られる。どのような法制度が望ましいのかを、各仲裁会社の職員、あるいは付属研究所の研究員として提案することができるのである。あるいは彼らの提案は、第三者的に大学などでの研究者などが行い、それを仲裁会社が取り入れる形で実践されるかもしれない。

 いずれにしても、被疑者の人権擁護が過剰であれば、被害者の救済と損害の回復にはマイナスの効果があることは明らかである。どの程度の妥協点がもっとも人びとが納得するものであるのか。これは、これまでのように選ばれた特権的なエリート集団である実務法曹や法務官僚が決定するべきことではなく、自動車の購入と同じように、各個人が、一人一人の正義感・倫理観・美意識・人権意識などによって、分権的に契約という形で警備会社に賛意を示すべきものである。警備会社・仲裁会社の選択が個人のレヴェルで行われることは、現在のようなエリート主義による制度の押し付けに比べて強調されねばならない美点なのである。

 

無実の被疑者への損害の完全な賠償

 また別の典型的な人権擁護の例には、無罪であるとの判決を受けた被疑者への存在賠償の問題がある。現在の日本の制度では、被疑者が無罪であった場合、一応刑事補償法による賠償制度が存在している。これは公務員の故意・過失を問わないものだが、最高額が3000万円となっている。ある程度の社会的地位にある人物が失職した場合などは、損害額を到底カバーすることはできない。実際に刑事補償法の4条を見てみよう。

 

第4条 抑留又は拘禁による補償においては、前条及び次条第2項に規定する場合を除いては、その日数に応じて、1日1,000円以上12,500円以下の割合による額の補償金を交付する。懲役、禁錮若しくは拘留の執行又は拘置による補償においても、同様である。

 

 平均的な年収である500万円の所得を得ているビジネスマンが逮捕されて失職した場合、これではまったく実質的な損害が賠償されていないのが理解できるだろう。

 また、これと並行して、国家賠償補償法という法律に基づいて、公務員の故意・過失を用件とはするものの、当該捜査活動によって被った損害の賠償がなされることになってもいる。しかし、これもまた現実には機能していない。

 なぜなら最高裁判所の諭説するところでは、検察官の起訴の違法性は「職務行為基準説」によるからである[2]。つまり「公訴の提起時において、検察官が現に収集した証拠資料および通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して、合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば、右公訴の提起は違法性を欠くものと解するのが相当である」といった旨の判示があるのである。

 また被疑者補償規定では、「嫌疑なし」とされた被疑者には後日補償がなされることになってはいるが、これは、大まかにいっておよそ「嫌疑」がある程度あれば十分であるということを意味している。ほとんどすべての被疑者は長期間の訴訟による拘束を受けるにもかかわらず、無罪となった被疑者の補償はまったく行われない。この意味で、警察は国家特有の特権的な立場をもっている。そして、ここには、無罪か有罪かはっきりしない場合に、捜査活動を抑制するべきインセンティヴがまったく存在しない。なお、アメリカでもこれはほとんど同様であり、「悪意ある」起訴などに限って賠償が認められているのが現実なのである。

 これでは、人権弁護士が捜査活動「全般」を人権侵害と同等視して害悪だと考え、あらゆる被疑者は国家活動から守られるべきだという極論に走るのも理解できようというものである。松本サリン事件のように、何の関係もない個人が被疑者となって、その後、無罪であることが誰にとっても完全に明らかな場合でさえも、警察機構、あるいは国家はその生じた損害を完全に賠償する必要はないのである。これは、誰が見ても現代法制度の倫理的欠陥、それも致命的な不道徳性の発露であろう。

 

違法収集証拠

 上述のように、社会的に認められた共通規範として人権を謳う憲法典が存在しないことは、人権の抑圧につながると危惧することもできよう。しかし無政府主義者はそうは考えない。むしろ、人権は国家が存在する現在よりも、はるかに保護されるようになるだろうと考えるいくつかの理由がある。第一のものは、刑事訴訟における違法収集証拠の取り扱いに関連している。

 たとえば、警察が令状主義に反して強制的な捜査によって証拠を取得し、その違法性が極めて大きな人権侵害を含むと考えられるとしよう。日本の警察の典型的な活動には、「任意同行」を求めておきながら、実際には夕方になっても自宅に帰すこともせず、長時間にわたる取調べを行った後に自白を得るような場合が多々ある[3]。これには、逮捕は裁判官による逮捕令状を得なければならないという令状主義の脱法行為だという批判があり、欧米的な基準では明白な人権侵害である。人身の自由の重要性にかんがみれば、違法な逮捕として扱うべきであり、その際に得られた自白もまた同様に違法であり、証拠能力が否定されるべきだろう。

 このように、捜査の違法性が極端である場合、現行の刑事法制度では、それによって得られた証拠は証拠能力を持たないものとして、裁判から除外するべきだとされている。これは刑事訴訟法において、違法収集証拠の証拠能力として論じられてきたものであり、法律上の根拠は存在しないものの、アメリカ流のデュー・プロセス(適正手続き)理論から刑法学会では支配的になっている。

 英米法的な人権擁護の感覚からは、この場合、当該証拠に基づけばたしかに被疑者の有罪が認定できる場合でも、その証拠は除外されることになる。これが目的とすることは、有罪な被疑者であっても、その証拠が強度に違法な手続きによって得られた場合には、将来の同様の違法な警察活動を抑制するために、無罪として釈放するということである。

 これには釈然としないという人も多いだろう。おそらく、刑事訴訟手続きのなかでも、もっとも通常人が違和感を覚える処理だろう。この違法収集証拠排除の原則は、つまるところ明らかな犯罪者を、将来の違法捜査の抑止のために無罪として放免する制度である。ほとんどの日本人の感覚からすれば、証拠が違法に得られたという状態は、そのような違法な行為をとった警察官を処罰すればよいのであって、被疑者が犯罪を行ったかどうかを認定することとはまったく別の問題だと考えるだろう。

 しかし、英米法における違法収集証拠排除の原則は、犯罪者をむしろ有罪であると認定できないという「足かせ」をはめることによって、将来の同様の違法行為をとろうとするインセンティヴ自体をなくそうとするという考えである。あるいは警察による司法捜査は廉潔、あるいは「クリーンハンド」でなくてはならないのである。

 アメリカではこの違法な証拠の排除が頻繁になされており、刑事訴訟での大きな駆け引きになっている。しかし、証拠の排除は日本ではほとんどまったく認められていない。最高裁の判決によれば、「証拠物の押収等の手続に、憲法35条、及びこれを受けた刑訴法218条1項等の所期する令状主義の精神を没却するような重大な違法があり、これを証拠として許容することが、将来における違法な捜査の抑制の見地からして相当でないと認められる場合には、その証拠能力は否定されるものと解すべきである」としている[4]

 憲法35条には、現行犯の場合を除いては、捜索や押収といった行為は令状がない限りはできないと定められているため、条文を素直に読めば、違法収集証拠は排除するのが筋といえよう。

 しかし、日本の刑事手続の現状では、極度の違法行為がなされない限りは、それによって得られた証拠までも否定することはない。これは日本においては、警察は人権の抑圧があっても事件の真相の解明に資するのであればよいのだ、という一般的な感覚を体現したものだといえるだろう。むろん、人権派の学者や実務法曹は、最高裁によるこのような厳格な違法性の判断は、人権を抑圧する可能性が高まるものだとして否定的に捉えている。

 さて無政府の社会が実現し、警察が複数の警備会社になった場合には、各警察はそれぞれ違法な逮捕活動に対して、被疑者あるいは被害者に対して完全な賠償義務を負うことになる。そして前述したように、被疑者の逮捕のためには、被害者の警備会社と被疑者の警備会社を架橋する仲裁会社の令状が必要とされるのが原則となるのである。

 令状なしの逮捕は違法だが、ある警備会社が切迫した状況において逮捕令状を取ることができないままに逮捕に踏み切り、それによって有罪の明らかな証拠が見つけたとしよう。この場合、その取り扱いについては2つの可能性が考えられる。

 どちらになるのかは、警備会社同士の交渉を通じた法の進化に依存することになる。あるいは2つの取り扱いが並存することになるかもしれないし、一方に集約されることになるかもしれない。

 まず第一は、令状に基づかない逮捕は一切認められないというものである。この場合、令状に基づかない違法な逮捕によって得られた自白や、さらにその自白から得られた証拠物もまた不法行為から得られた「毒樹の果実」であるとして、証拠能力を否定するというものである。これはアメリカ的な適正手続の延長線上にある取り扱いだといえよう。この場合、真実の発見よりも捜査上の人権の確保が優先される制度だといえるかもしれない。しかし、このような絶対的な人権擁護的な法制度は、日本人の感覚からは主流になるとは思われない。

 より可能性の高いもう一つの制度では、違法な逮捕や捜索・差し押さえは(結果的にではあれ)違法ではなかったことになり、賠償される必要はないし、証拠能力は否定されないために被疑者は有罪となるというものである。反対に、有罪の証拠がなんら得られなかったとしよう。当然に被疑者は無罪になり、違法行為を行った警備会社には、その違法であった逮捕・捜索・差し押さえの完全な損害賠償が課せられることになる。

 つまり、被疑者の人権は、少なくとも無罪の場合には事後的には賠償によって保護されることになる。このため、各警備会社には、違法な捜索活動に対する、金銭的に強力な抑止効果が働くことになるのである。しかし、違法な行為の後にも、被疑者が有罪であれば、警備会社の活動は正当化され、被疑者は有罪となる。ここでは、警備会社は被疑者が実際に犯罪者である可能性に応じて、無罪の場合に期待される存在賠償と、犯罪者の検挙率とのトレードオフについてそれぞれの警備会社が本部と現場で判断することになるのである。

 おそらく、この制度のほうが人権擁護よりも真実発見のほうに軸足を移した妥協的な刑事制度であろう。日本人の多くをはじめ、世界でも少なからぬ人びとが、人権をある程度侵害しても真実の発見を望んでいるように思われる。そういった場合には、こちらのほうが正義感覚にかなうといえよう。

 どちらの制度になるにしても、現行の国家警察による違法行為によって得られた証拠と、それに対する裁判所による証拠能力の否定よりも、すぐれた制度であるといえそうである。

 なぜなら現行の制度では、違法な活動による逮捕が有罪証拠につながらなかった場合には、予算制約の存在しない国家が、名目的な賠償を行う程度で済む。そこでは、違法な活動をやめる大きなインセンティヴは存在しない。せいぜいが、担当官の出世に若干の影響が出る可能性があるだけである。つまり、現行の違法収集証拠の排除は、警察に違法行為をやめさせるような強いインセンティヴを与えることはできず、捜査の過程で違法行為を受けた犯罪者を釈放してしまうという矛盾を内包した制度なのである[5]

 国家は無謬であるという原則は、明らかに人権保護にとっては有害である。実際に、松本サリン事件に見られるような誤認逮捕は、警察の特権的な地位そのものから生じる論理必然的な帰結なのである。それを裁判の場面で救済しようというのは、まさに「肉きりオノを使って脳外科手術を試みる」[6]というような危険と矛盾を生じさせてしまう。

 ベンソンやバーネットが主張しているように、刑事法を民事法に一元化し、警察の特権を一般市民法に還元することによって、警備会社は価格インセンティヴに直面することになる。そして、それは結局めぐりめぐって、むしろ人権保護につながるだろうと予測される[7]

 

無政府社会での個人としての差別

 無政府社会でいう自由は消極的な自由のみであるが、これがもたらす社会的な帰結について確認してみよう。

 私は独身である限り(あるいはイスラーム法などある種の法によれば独身でなくとも)、どの女性に対しても結婚することを提案することはできるが、それを相手に強制することは当然できない。これはあらゆる現代人の常識である。では、私は大きくて魅力的なショッピングモールに入りたいが、私が着ている服があまりにもみすぼらしいので、ショッピングモールの運営者は警備員を使って私の入店を拒否するとしよう。これは、果たして許されるのだろうか?

 許される、というのが消極的な自由の意味するところである。誰一人として他人から何事かを強制されることはない。ショッピングモールは私有財産であり、その管理者は私がホームレスである場合や、あるいは犯罪の予備軍であるように見える場合に限らず、わたしに対する単なる嫌がらせとしてであれ、入店を拒否することができるのである。

 これは、ショッピングモールが次第に小さくなって個人商店になり、あるいはさらに個人宅になるような場合には、一見して了解可能となる論理である。がしかし、現在の積極的な人権論者であれば、自宅から、個人商店、ショッピングモールにいたるどこかの時点で、その場所は「公共性」を帯びるようになり、潜在的な顧客を拒否できなくなると考えるだろう。

 労働法においても、不当な差別の禁止というのは多くの国に見られる。アメリカでは大きな企業の活動はstate action の法理によって、国家と同じような憲法的な制約を受けると考えられている。

 私はここで、そういった平等主義的な感覚をとくに否定する気はない。しかし同時に、ある人が、クレジットカードに埋め込まれた無線タグの反応がない人物に対しては、入場を拒否するショッピングモールがどうしても道徳的に許せないというのであれば、人びとにそのショッピングモールの人道的な理由から利用の拒否を訴えかけるなり、自分がそういった会社をボイコットすればよいと思う。十分な人びとの共感が得られるならば、そういったショッピングモールの経営会社は、そういった行為が利益を下げるという単純な理由から方針を変えるだろう。

 情報化の進んだ社会では、人間が過去に累積的に行ってきた活動が、そのまま評判という人的な資本になる。住宅ローンを審査する銀行員は、申込者が過去にサラ金の多重債務者になっていないかをチェックするだろう。それは、ローンの返済の見込みと関係しているからである。

 同じように、罪を何度も犯してきた人物は、多くの私有地への立ち入りを拒否されることになるだろう。無政府社会では、現代のように犯罪の履歴の管理が国家による一元的なものでなくなり、プライヴァシー権の範囲がはるかにせまく解釈されるようになる。犯罪の潜在的な被害者にとっては、過去の犯罪者・累犯者のリストによって、犯罪を起こす可能性のある人物を排斥することには合理的な理由があるからである。

 現代の自動車保険会社は、過去に契約者が起こした事故の数によって保険料を変更している。まったく同じように過去の犯罪歴は、そのままその個人の警備料に反映されるだろう。それがたとえ被害数であってさえも、警備料の上昇を招くかもしれない。直感的な正義感には反することだが、被害に遭うということは、あるいは本人が挑発的、あるいは危険な場所を活動範囲としていることに起因するという可能性を排除できないからである。

 とはいえ、私は楽観主義者であり、実際にはそれほどの差別が起こるとは思わない。

 私は、比較的に開放的なショッピングモールで、雑多な人びとが会話を交わしながら、あるいはウィンドウショッピングをしたりしながら行き来したりするのを見て、コーヒーなどを飲んだり、読書したり、いろいろと考えたりするのが好きである。だから私は、過度に警備員が目立つような場所を好みない。とはいえ、同時に暴力団やその予備軍となっているようなティーンエイジェーが、明け方まであてもなくたむろしているような盛り場やゲームセンター、コンビニの前の駐車場などの場所もまた好きではない。

 現在の社会には、メンバーズ・オンリーのエクスクルーシブな場所やサービスが用意されており、それが比較的多くの人びとから支持を受けている。これは間違いなく事実である。とすれば、無政府社会においても排他性をサービスとする場所と公開性・開放性をアピールする場所は、購入希望者の好みに合わせて連続的に並存することになるだろう。それが道徳的に許せないという人は、私有財産制度の意義をほとんど無意味にするような管理経済を指向するしかない。

 

大企業と独占資本

 歴史的に見て、左翼的な無政府主義は、一切の既成の権威と秩序を否定しようとしてきた。その中には、大企業によって搾取される労働者の救済の意図があったことは間違いない。左翼的な無政府主義者の敵意は、彼らが感じた資本主義における常態である大企業による経済支配と抑圧に向けられてきたのであり、それらを国家による支配や抑圧と同じだとみなしてきたのである。彼らの考えに従えば、資本主義こそがまず矯正されるべきであり、それはもちろん国家か、あるいは人民の実力によってなされるしかない。

 無政府資本主義者は、この反対の思考を採用する。国家による支配と抑圧は、資本主義の権化である大資本や巨大独占企業によるものよりもはるかに悪質であり、即座に廃止されねばならないのである。私を含めて多くの無政府資本主義者は、大企業による支配などは実は妄想であって、現在行われているような国家による資本の活動規制を正当化する理由などはまったく存在していないと考えている。

 これには、以下に述べるような3つの理由がある。

 まず1つ目は、独占とは実際には政府が法的につくり出している状態にすぎないということである。たとえば、独占企業による価格操作とそこから生じる消費者の搾取を阻止するために、世界中で広く独占禁止法が採用されている。しかし、独占のほとんどは政府の許可によって作り出されたものなのである。電気、ガス、水道、その他のほとんどすべては、より大規模な企業が規模の経済のために自然独占になるだろうという前提の下で、国家によって管理されるのが普通である。そして参入の自由は、規模の利益が存在する以上は非効率的になるはずだからという理由から、完全に否定される。こういった行政は、たとえば日本の電気業界、ガス業界が典型である。

 だが、現実の政府規制のあり方は、それらの会社にとって都合のよりものになり、高い料金を地域独占的に認めることにならざるをえない。なぜなら、企業の価格構造は企業のみが知りえるものであり、官僚は善意であれ、悪意であれ、それらの企業から提出されたコスト資料をもとに認可せざるを得ないためである。そもそもある市場に参入するべきかどうかを決めるのは企業家であるべきであって、国家が原則的にそれを禁止しているようでは、技術革新はもたらされない。また、なぜ自然独占になるのであれば、政府がそれを法律で事前に制度化する必要があるのかもまったく不明である。消費者を保護することができるのは参入の自由のみであり、実際に参入がまったく起こらない状態が続いた後に初めて、なんらかの行政行為がなされればよいだろう。

 なお、このもっとも極限としてはテレビなどのマスコミがある。そういった会社は国家の特許としての電波の使用許可によって、彼ら自身の社会的な影響力を、まったくの真空から作り出している。これは、インターネットの発達によって近い内に崩壊するだろうが、無政府社会では現在よりもはるかに多くのニュース会社が多様な手段で、新興宗教からテロリズムに至るまで人びとにあらゆることを訴えるだろう。

 2番目は、独占状態にあると考えられている産業も、誰かがそれを創始したからこそ存在しているのであり、その創業者利益は保護されてしかるべきだという価値判断である。これをもっとも雄弁に語ったのはオーストリア学派の経済学者であるイズラエル・カーズナー (Kirzner, 1989,1992, 1997,)だろう。彼は、すべての資本主義による生産文明の進歩と安定化は企業家によってもたらされており、それらの企業活動が一時的な独占的な利益を生み出したとしても、それは創業に伴うリスクの報酬として正当な対価であると主張する。

 私は、この考えに深く同意する。自動車の製造、電力事業の創始、アルミ精錬にしても、鉄道敷設、飛行機の発明にしても、あらゆる事業には大きなリスクが伴ってきたことは歴史的な事実である。多くの人びとはそれらの事業の企てを揶揄しながら傍観するだけであるのが普通である。その結果が大きな利益を生んだとすれば、それは信念に従って行動した企業家が得るべきであり、間違っても、その利益を制限、再分配しようなどと考えるべきではない。我われは、その独占企業家との取引から利益を得るからこそ、その商品を購入するのであり、彼や彼女は先駆者としても、あるいは単なる取引相手としてもその富に値するのである。

 3番目の理由は、どのような産業の作り出す製品もかならず代替物があり、歴史的に明らかにそれは増えてゆくという事実である。考えてみよう。たとえば電気は代替物がないのだろうか?古くからは、純粋な光源としてはロウソクもあったし、熱源としては石炭もガスもある。もっと現代的にいっても、電力を配電する事業について考えれば自家発電もあるし、近い将来にはガスによるコ・ジェネレーション(熱電併給)の実用化もあるだろう。

 別の例を挙げてみよう。鉄道輸送は19世紀から20世紀の中盤まで大きな利益を生み出し、カリフォルニアやテキサスでは鉄道王がスタンフォード大学やヴァンダービルド大学などをつくったほどであった。とはいえ、鉄道には、常に海運や馬車、トラックなどの代替的な輸送機関の存在があったのである。現在では、飛行機もあり、さらに新聞などのような情報自体の転送については、すでに物理的な輸送をする必要はなくなってしまっている。

 同じように、現代のマイクロソフトのウィンドウズが独占的だという人は、ヨーロッパには数多くいる。だが、そんなにマイクロソフトの製品が不愉快なのなら、リナックスを使ってもいいし、マッキントッシュを使ってもいいだろう。マイクロソフトは私が敬愛する企業ではないが、多くのコンピュータ初心者には有益な商品を提供している。

 多くの人はこれに反対し、ネットワークの利益が存在するためにマイクロソフトがデ・ファクトの地位を維持し続けているのだという。しかし、エクセルの前はロータス123が、ワードの前にはワードパーフェクトやワードスターというプログラムが主流であった。コンピュータの短い歴史にかんがみても、私にはネットワークの経済がそれほど大きいとはとても思われないのである。

 このように考えれば、どのような産業にもかならず代替的な財やサービスが数多く存在し、ある産業が独占的であれば、新規参入が魅力的になるだけでなく、代替的な商品もまた発達するインセンティヴが発生する。歴史的には、独占と消費者の搾取は常に国家のみによって支えられてきたことを銘記すべきなのである。

 以上3つの理由を述べた。結論的に、私には、市場の独占を禁止するようないかなる正当な理由も見いだせない。よって独占を禁止するための政府が不必要であるだけでなく、「現行の」独占禁止法もまた不必要かつ有害であると考える。

 

モダン・タイムス、あるいは会社人間

 一部の左翼的な知識人は、大企業は非人間的な労働環境を労働者に押し付け、それによって大きな不当利益を得ているという。たとえば、奥村宏はその主著『法人資本主義』において、日本人に多くみられる「会社本位人間」を批判している。また同じように、独自の批評雑誌『週間金曜日』を創刊した佐高信なども、会社に忠誠を誓い、自らのアイデンティティを会社におくビジネスマンを、「社畜」であると酷評・批判する。

 たしかに、大企業は典型的に数万人の従業員から構成される。そして、そこでは民主主義が行われているわけではなく、基本的には組織の命令はトップダウンで与えられる。社会学的にいうならば、ここにもたしかに命令という形の権力が存在している。この権力もまた、左翼的無政府主義の活動家が歴史的に糾弾し、その廃絶を目指したものである。

 ここで、あなたが大学を卒業し、一流と呼ばれる会社に入社したとしよう。20年間のビジネス活動を通じて、友人・知人のほとんどが、その会社にいる可能性は高い。そこで会社にますますの情熱を注ぎこむかもしれない。自分の納得できない業務命令が下されることも、一度や二度ではないだろう。ある場合には、子供たちとすごす時間が減るかもしれないし、妻との会話も途絶えがちになるかもしれない。最悪の場合には、会社からの業務が厳しすぎて、あるいは頑張りが限度をこえてしまい、過労死することになるかもしれない。

 しかし、このような人物の人生の、一体全体どこに批判されるべき問題点があるのだろうか?私は、人間の意志の力を信じている。かりに会社の要求が耐えられないようなものであるのなら、なぜ会社を辞めればいいだろう?おそらく収入は激減するだろう。あるいは子どもの教育費も捻出できなくなるかもしれない。

 しかし冷静に考えるなら、現代社会ではマクドナルドでアルバイトをしても餓死するようなことはない。ハードな会社をやめないからには、おそらくは高額な給与、自分の職業への矜持ややりがい、友人からの評価や信頼があるのだろう。それらの失いたくない何かが、確率的な事故として、悲劇を生むことはあるだろうが、だからといってそれを否定することは本末が転倒している。

 おそらく、多くの人間は集団主義的な傾向を持っているのだろう。ヒトの原始的な適応環境では、比較的頻繁に部族間の闘争は起こったし、部族内にも当然ながら派閥があったはずである。それらの集団は自分を守ってくれる第一義的な存在であり、自らのアイデンティティをそこにおいて、価値観をその集団と一体化し、極限まで努力する人間がいるのは不思議なことではないだろう。無理やりに、西洋近代の作り出した「自立した自我をもつ個人」を理想とする必要などは、どこにもない。

 また別の言い方をしてみよう。我われの現実の婚姻関係は、不断の軋轢と葛藤にみちあふれているのが普通である。しかし、多くのカップルはなんらかの形で内在する問題をそれなりに先送りなり、解決なりして、離婚にいたることはあまりないようである。それには子供への配慮もあるだろうし、別れて住むことの経済的な負担もあるかもしれない。

 時折指摘されることだが、資本主義における会社と従業員の関係は、夫婦関係に似ている。ともに長い時間を一緒にすごせばお互いのことをよく知るためにエネルギーが費やされ、それが大きなサンク・コストとなる。現在の関係を清算して、新しい関係を始めるのは不可能ではないだろうが、それには大きなエネルギーが必要である。妻は時に私にきちんとした生活をするように「権力」を振るうだろう。しかし、私はその権力からのコストが高すぎれば、別居や離婚を選ぶことができる。この意味で、フェミニスト弁護士が、ときに夫婦の共同生活の仔細にまで、多様な主張を押し付けてくるのは不思議ではない。それは労働関係の弁護士が労働条件について介入するのが社会正義なのだと考えるのと、まったくパラレルな関係にある。

 会社と従業員は、私の信念では常に対等である。従業員はいつでも辞めることもできるし、就職前にその会社の福利厚生について調べることもできる。それは、我われが事前に相手がどんな人物なのかをよく観察するためにデートをしたりし、結婚しても、いつでも離婚できるのと同じである。婚姻が女性の搾取を生むのであれば、結婚しなければいいし、あるいは搾取しないような男性を探すのもいいだろう。資本主義に跋扈する会社制度が嫌いなのであれば、個人営業をすればよいし、無人島へ行って自給自足で生きるのもいい。

 会社人間は結局のところ、経済的な対価、精神的な対価を会社の組織全体から受け取っているのであり、きわめて合理主義的で理解可能な価値観である。たしかにそれはある種の思想によれば、善なる生き方から離れているかもしれない。しかし、何らかの生き方を善であるとするのは、およそ多様な価値観を認める自由主義にはふさわしくないだろう。

 左翼思想とは、その実人間の多様な価値観や信念、自然な生き方をおそろしいまでに否定し、画一的な生のあり方をおしつけてくる恐怖の思想である。野球だけをやりたい少年が、野球だけをすることを絶対的に否定し、彼もまた成年後は市民となるべきだからとして、彼のまったく望まない知識を獲得するべきだとする。そして、会社で働くことで人から信頼され、出世して名を成したいという、最もありふれた人間の生き方までも、時に否定する。私には、なぜそれほどまでに独善的に、自分の価値観を他人に押し付けることができるのかが理解できない。

 

企業や大学、その他の集団

 上節では、企業の持つ権力性について否定的に論じた。それでは、人間のそもそも持っている集団性心理を超えた、なんらかの合理的、あるいは経済学的な存在理由が企業には存在するのだろうか。この答えは、おそらくコースによって創始された、企業の経済学が参考になるだろう。彼の企業理論は、その1937年の古典的論文『企業の本質The Nature of the Firm』に端的に表現されている。

 個人が別の個人とそれぞれ独立に契約を行うことによっても、集団の形成は可能である。たとえば、ホンダという会社組織は数十万の従業員からなるにしても、会社の従業員としての契約に代わって、それぞれの契約を別の従業員の誰かと、あるいは資本側の代表としての取締役会と結ぶことによっても、自動車の生産は原理的には可能だろう。

 あるいは、ボーイングという会社と直接に契約するのではなく、その研究なり、生産なりをピースミールに分解して、飛行機を生産することは不可能ではないはずである。とはいえ、現実にはこのような契約形態による、高度な工業生産物はほとんど存在しない。なぜなのだろうか?

 おそらく、その答えは、起こりうる多様な状況のすべてを網羅的に記した契約(完備契約)をすることが現実的ではないことにある。生産ラインはさまざまな理由からストップするかもしれない。それ以外の研究、生産、販売活動のすべてもまた有機的に関係しており、どのような問題が起きたときに、いかなる契約金や労働条件になるのかの完全な予測をすることは不可能である。

 そこで、このような契約費用が高くつきすぎるような場合には、我われは「組織」をつくり、さまざまな問題が発生した場合について、契約の明確化をしないままに、一般的な協力関係を契約することになる。つまり契約費用の上昇が企業組織を作り出すことを有利にするのである。

 しかし、大きな組織の成立にはデメリットもある。大きな組織では、つねに一部の人間がサボることによって他の人間の労働を搾取することが可能になるからである。よって、無用な命令系統などのオーバーヘッドコストや、あるいは公共財的な囚人のジレンマ状況の発生によって、大きな企業はいわゆる「大企業病」や「官僚病」が起こってしてしまい、結果として競争力を失ってしまうのである。

 このように、基本的に企業の規模は、契約費用と、大企業病の弊害の二つがバランスするところに落ち着くことになる。よって、こういった組織がもつ事実的な権力性の有無にかかわらず、無政府社会においても多くの工業製品が巨大な企業によって造られ続け、その結果、多数の人たちは会社組織に所属して、その労働活動を有益な社会生産に結び付け続けると考えられるのである。

 次に大学などの組織はどうなるのかについて考えてみよう。大学では、企業にあるような複雑な条件依存的な労働活動は行われていない。そこで、フリードマンが考えるように、個人としての教授が一人一人の学生と授業契約をし、そのような教授活動が集中的になされる場所として、大学は存続し続けると考えることもできるだろう[8]。これはヨーロッパ中世に原初的に存在した、技芸の教授場としての大学だといえよう。

 しかし、そのような制度は、現在の社会においても、今すぐにも実現可能であるにもかかわらず、かつて実現したことがなく、そのような気配もない。私はこれには理由があると考える。それは、大学を知的な生産性の向上の場であると考える、あるいは集団的な教育施設であると考えるようなサプライ・サイドからの説明ではなく、むしろその生産物としての学生を欲する社会の側からの、つまりデマンドサイドからの理由付けである。

 このデマンドサイドから見た、教育組織としての大学の存在理由とは、大学名の持つ情報集約的なシグナリング効果である。つまり、多くの社会では、出身大学の名前は、その具体的な単位の優劣や内容、あるいは単位の授与者の名前を超えた情報を運んでいる。日本人であれば、東京大学や早稲田大学といった大学名は、そこで教授する数多くの教員の具体的な名前の集合に比べて、卒業生の多様な能力の資質についてはるかに多くを物語っている。

 これはアメリカではハーバード大学やイェール大学、フランスではソルボンヌ大学、イギリスではオックスフォード大学やケンブリッジ大学、中国では北京大学、清華大学や復旦大学、韓国ではソウル大学といったように、ほぼすべての社会に共通している。

 よって、私が直感的に分析するところでは、無政府社会でも同じように大学組織は存在し続けるだろう。なぜなら、それは消費者(この場合はおそらくは卒業生の資質を検討したいと考える企業や一般社会人など)が学生の能力の単一指標となるような、集約的なシグナルを欲しているからである。

 産業心理学の分野でも、労働者の生産性はその一般的な知性と相関しており、個別的なスキルや知識は長期間働く場合には、ほとんど生産性とは無関係であることが知られている。もし仮に、大学で学ぶことがそれほど有意義であるのなら、私の学生としての、また教員としての経験からいって、日本の大学に文科系の学部は存在しなくなるだろう。文型学部の存在は、社会的に求められている資質が、一般的な知性および他者と協調できるパーソナリティだけであり、それを大学名がシグナリングしていると考えると納得できるだろう。

 このような現象は大学だけではなく、すべての生産活動の領域においてあてはまる。つまりそれは、会社の名前とは、消費者側からの情報処理コストの低減のために有益だということなのである。たとえば、ホンダのクルマはGMのクルマとは異なった消費者意識を呼び覚ますだろうが、それこそが情報処理のコスト削減の意味なのである。ホンダに働く多くの技術者や労働者の一人一人、あるいは個別的な情報を超えて、集約的にクルマの品質について知るためには、企業名といった単純な指標が必要なのだろう[9]

 他の企業活動でも状況はまったく同じである。安全について考える消費者は、食品会社を工場単位ごとに分けて考えることは可能であっても、およそそのようには考えないだろうし、いわんや従業員一人一人を覚えることは現実的に不可能であり、そういう必要性もそれほど強くは存在しない。

 同じように、株式や社債、国債などの有価証券の格付け機関でさえもが、その従業員の経年的な変化にもかかわらず、S&Pやムーディーズなどというような組織名で消費者に記憶されている。あるいは自動車やパソコンなど多くの商品に関して、アメリカではJDパワー社やコンシューマー・レポート社などが、 分析者個人ではなく、大規模な組織として情報を提供しているのである。

 おそらくは、これがあまりにも複雑な現代社会における消費者にとっての認知的に効率的な情報の集約化、ならびに情報処理の結果なのだろう。このような生産物のシグナリングとしての企業の必然性は、上述の生産活動の必要性からくる企業の必然性とあいまって、無政府社会においても多様な生産組織の存在を肯定するだろう。

 

無政府社会は「自由」な社会になるのか?

 私のようなリバタリアンが無政府社会を目指すというとき、そこでは「無政府社会は現代社会よりも自由である」という前提がある。しかし、この命題自体は自明ではない。私はすでに、無政府社会においては国家がない分だけ、国家からの人権擁護がよりいっそう進み、あるいは、動物の虐待など、プライヴァシーの侵害などの行為は現在よりもむしろ強く禁止されるようになる可能性を論じた。

 それでも、全体としては圧倒的に自由な社会が出現するだろう。なぜなら、無政府社会では、何か他人の行為を禁止するためには、自分の資源を与えることによって他人に当該行為をしない契約を結ばせる必要があるからである。現在、麻薬や売買春などの被害者なき犯罪が禁止されるのは、数で圧倒する人びとが多数決民主主義に基づく国家権力をレバレッジとして利用して、常習者の税金や罰金をも使いながら、禁止を強制できる国家システムがあるからである。

 ロックに始まる自己所有権テーゼを持ち出すまでもなく、現実の問題として個人の行動は個人の意思によって決定されている。この意味で、ある人に他人が望まないことを強制するためには、当人に金銭的に納得してもらうか、政府によって強制するしかない。なぜなら、最低限度その人間を監視するなり、監禁するなりの強制力の使用は権力国家がなければできないからである。とすれば、一元的な権力のない無政府社会では、1、他人にしたいことをさせないような道徳的サディストが大多数を占め、2、彼らのみが圧倒的に有能で高い生産活動が可能である、というような仮定に立たない限り、現在よりもはるかに自由度の高い社会になるだろう。

 ここでは、具体的な例として、麻薬規制と、銃規制とについて考えてみよう。

 現在、抗神経作用を伴うようないわゆる麻薬類はすべてが禁止されている。すべての警備会社が禁止を続ければ、麻薬を愛好する人の権利は守られず、それは犯罪となり続けるかもしれない。この場合、麻薬の使用を自由権の一部だと強力に主張する人びとは、独自の警備会社をつくるか、あるいはいくつかの警備会社を説得する必要がある。

 現実には、現在の日本の大都市には十分な麻薬常習者がすでに存在しており、彼らの権利を認めようとする会社もすぐに出現するだろう。とくにニコチンやアルコールよりも中毒性も薬理作用も弱いマリファナなどの薬剤はすぐに規制から外れよう。規制には反対である人はすぐに警備会社にそのことを合法化することを求めるだろうし、それに納得する人もある程度存在するからである。

 いったん、ある警備会社が麻薬使用を合法化したとすると、今度は麻薬を規制するためには、原則として麻薬を取り締まりたいという警備会社が、麻薬使用を自由権の一部と考えて保護する警備会社に対して、何らかの金銭支払いをして、麻薬使用を犯罪として認めさせる必要が生じる。が、これは起こらないだろう。多くの日本人は麻薬使用が取り締まられるのは望ましいと思っているが、自分の契約金の一部がそのために使われるというほどには、それを望んでいないからである。

 しかし、前述したように、これは私有のショッピングモールなどでは許されないかもしれない。あるいは道路会社の私有財産である路上でも許されないことになるかもしれない。しかし、どこか山奥の一軒家の自宅での服用までが禁止されることはないはずである。

 これに比べると、銃規制ははるかに多くの日本人が強く反対するだろう。銃器はそもそも他者加害の道具であり、それによって凶悪犯罪が増えると考える人は圧倒的に多い。この場合、初期のすべての警備会社による違法状態から、どこかに銃器の保持を自由権の一部として認める会社が出てくるのだろうか。私にははっきりしない。

 仮に出てくるとするなら、その後は麻薬の場合と同じで、銃器反対の警備会社との間で交渉が行われ、軽火器が個人財産上での使用が認められるようになるだろう。また、仮にすべての警備会社の経営陣が銃器の保持を認めないとしたら、一部のガンマニアや暴力団員などが、銃器を合法化する顧客を惹きつけるような警備会社を起業することもありえるかもしれない。

 しかし、いずれにしても、何十年何百年という時間の内には銃規制はなくなってゆかざるをえない。イラクのイスラーム・テロリストは一般人だが、そのプラスティック爆弾は十分な破壊力をもっている。おそらく科学技術の発展とともに個人の使いうる銃火器、あるいはそれに類する殺傷兵器はますます進歩して多種多様になり、安価に入手できるようになる。

 よって、麻薬規制についても銃規制についても、長期間の内には次第に自由化されてゆかざるをえない。それによる殺人事件は増えるだろうが、無政府の社会は現代日本よりも多くが許されることになってゆくだろう。
9、国際法および国防

 無政府社会に住む個人が、現在のように国家的に分断統治されている外国旅行に出かける時には、どのような制度になるのだろうか。警備会社は顧客の便益のために、統一されたパスポートに当たる身分証明を発する。各国政府からは、これがパスポートしての正式な身分証明と国籍証明となる。各国政府のなかには無政府を認めないものもあるだろうが、国交などまったくなくても、経済取引が望ましいのであれば、現在の日本・台湾関係や、アパルトヘイト政策時の南アフリカと日本の関係のように、人びとは往来できるのである。

 現在の国際公法では、国際法の遵守主体は国家であるため、無政府社会での国際法のあり方や、条約の締結が問題となる。まず、いわゆる条約というものはすべて締結されないだろう。無政府社会の主権はすべて、個人に属するからである。各個人に属する主権は、警備会社によって代理することはできるだけで、会社には主権国家と同じような絶対的な権限は与えられていない。

 とすれば、国際法は厳密には適用がまったくなされないことになるが、現実には各警備会社は、契約者の安全などに関しては、現在の政府と同じように外国政府と折衝することになるだろう。人道主義的に考えれば、主権国家であろうが、契約警備会社であろうが、扱いが異なる理由はないからである。

 現在でも、日本人に対して罪を犯した外国人が問題になっている。例えばブラジルなどの国では、自国民の引渡しを行っていない。おそらく、ヨーロッパから多くの政治犯などが避難してきた経緯があるからだろう。この場合でも、刑法犯についてはブラジルの警察が代理処罰にあたっている。

 無政府社会に逃げ込んだ外国犯罪者は、その被害者の住む犯罪地の警察が逮捕・処罰することになる。あるいは、外国の警察が警備会社に身柄の拘束を依頼するかもしれない。また、無政府社会の住人が外国人に対して行った罪は、外国人の所属する国家の警察と住人の警備会社との交渉によって手続が決定される。現実的には、この場合にも事前に世界のほとんどの国と警備会社との統一的な契約約款が、現在の条約と同じように成立するだろう。

 

警備会社は非領域国家なのか

 ここで、一つ素朴な問いに答えておく必要がある。それは、これまで記述してきた警備会社は、現代の国家とは違って、「国土」という領域こそ支配していないものの、人びとの考える国家そのものではないのかという疑問である。これに対する答えは、あるいはそういってもいいかもしれないが、少なくとも私見では、国家というものの規範的な理解において違っている、というものである。

 まず、非領域国家であるという考えを肯定する要因をみよう。

 ここでの警備会社は、契約者としての「国民」の安全を守り、あるいは以下にみるように、武力を持って他国の侵略にも対抗する。さらに、「民主的」な会社は国民自治の原理によって、国民投票によって指導者を選び、あるいは法律も委任された立法院の議決によるだろう。それに比べて、「独裁的」な会社は、国民は経営者という独裁者にすべてを一任するだろう。警備会社はそれぞれが独立した、物理空間において非排他的な非領域国家と呼ぶに値する実態を持っているのである。

 これに加えて、多くの契約者が倫理的な感情をもって警備契約を結ぶだろうことからすれば、契約者はその「愛国心」においても、現代の政党やスポーツファンを超えたアイデンティティと忠誠心を警備会社に対して抱くに違いない。少なくとも、相当数の人間が警備会社を所属国家であると捉えるだろう。この意味でも、非領域国家という呼び方は、現代の国家主義的な思考様式になれた人間にとっては、説得的なものだろう。

 しかし私は、以下の2つの理由から警備会社は国家とまでは呼べないと考える。

 一つ目の理由は実質的なものである。それは、各契約者は現在国家の国民とは比べ物にならない程度の、契約会社の選択の実質的な自由を持っているということである。現代人の生活では、他国へ亡命、帰化するためには移住をする必要があり、そのためには親族や友人などの多くを犠牲にする必要がある。あるいは、文化や言語なども違えば、大きな心理的、経済的損失につながってしまうため、他国に移住するというのは並大抵ではないコストを要する。これに対して、警備会社を変更するのは、現在の保険会社や携帯電話会社、あるいは支持政党の変更と同じ程度のコストしかかからない。

 この状態の意味する結果は明らかだろう。現代の国民国家は、あまりにも多くのものを国民一人一人に対して人質にとっているため、国民の逃亡を危惧する必要性が著しく低いのである。そのために、多くの政治制度がほとんどの人間から不満がある場合でさえも、少数の既得権益集団のために維持されてしまう。無政府社会の警備会社は、どのような企業統治の形態をとるにせよ、その契約者からの批判の目に常にさらされることになり、これは効率なり、正義なりを常に増進させることになる。この意味では、実質的には警備会社は現代の国家とはあまりにも違う状況にあるため、国家と呼ぶことはできないのである。

 二つ目は、より形式的なものである。それは、警備会社は、契約者を拘束するようないかなる特権も正当性も持たないということである。これは、近代が生み出した概念である、国家の「主権」について考えるとわかりやすい。現代国家の法理論と国際法における国家という法人は、所属する人びとを超越した主権を持つと考えられている。だからこそ、国会などでの意思決定が国内の反対者をも拘束する正当性を有するのである。

 これに対して、警備会社は私人を超えた権利を一切持っていない。私人を逮捕すれば、当然にその損害を賠償する責任を負う。逮捕された私人の警備会社が、当人の逮捕の不法行為責任を追求しない場合というのは、あらかじめ明示された契約にある場合だけである。もちろん、その中には、警備会社に共通する犯罪を行った場合が含まれているはずではあるが、これは現代国家のもつ超越的な行政の権原とは、原理的には異なった明確な契約に基づくものである。

 よって、国家の存在を前提にした日本国憲法前文で謳われているように「主権が国民に存する」のではなく、無政府社会では主権は個人個人に存する。よって、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものあって、その権威は国民に由来し、この権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」のではなく、個人がすべてを決定して、その結果に責任を負うのである。そもそも論からすれば、信託や権威などの政治概念自体が不正と腐敗の温床なのであり、政府という強盗団を正当化しているのである。

 よって、主権は個人に存し、課税という名の明らかな強盗行為は否定される。これらの自己決定権たる主権概念と、正当性原理において、警備会社は現在の保険会社以上のものではない。よって私は、定義に依存することは認めつつ、少なくとも現時点では、無政府社会の警備会社は非領域国家と呼ぶべきではないと考えている。

 

国防活動の公共性のもつジレンマ

 これまでも多くの論者によって、国防機能の欠如が無政府社会においての最大の問題だと考えられてきた。国防は純粋に経済の外部性が高い財、つまり公共財であり、私を北朝鮮のミサイルから防衛してくれる迎撃機器は、私の隣人の安全をも不可避的に保障することになる。その結果、私が国防費用を支払えば、隣人は支払うことなく安全に暮らせてしまう。となれば、合理的な個人は誰も防衛費用を負担しなくなり、あるいは過小にしか負担しなくなるために、そのような社会は外国軍の脅威にさらされてしまう。

 あるいは、コース的な表現をするなら、国防費の支払いについての受益者間の取り引き費用はあまりにも高いため、そのような国防費は十分にはまかなえないだろうともいえよう。この場合、国防費を負担するべきなのはすべての日本国民だが、そのような合意は交渉費用が高すぎて、市場では得られない。

 国防についての、これまでの無政府主義者の理論には、どのようなものがあるのだろうか。代表的なところでは、たとえばロスバードのような権利基底的なリバタリアンは、第一に、歴史的にみて、戦争は領土の拡張を狙った国家が行ってきたことを重視する。相互に疑心暗鬼に陥った国家が、自国の防衛と称して戦争をはじめるのが歴史の事実であるとするなら、無政府社会は他国の脅威となることはそもそもありえず、戦争を仕掛けられることも現実的ではないと考えるのである[10]

 

他国政府からの侵略と国内状況

 話をより現実的にして、日本が無政府社会になったとして、2007年の時点では脅威となるのはまず北朝鮮である。30年のうちには中国もまたはるかに大きな脅威となるだろう。その他の民主国家が侵攻してくるということは、ほとんど現実的にはありそうもない。

 まず第1に指摘しなければならないことは、無政府の自由な社会では、政府規制がないためにより高度な科学技術が急速に発展し、それによって兵器のもつ潜在能力が上がるだろうということである(ex. Hoppe 1998)。これは、たとえば北朝鮮の軍事的な予算規模は2007年で、およそ2000億円程度と日本の25分の一程度だが、その侵攻能力や迎撃能力は日本の25分の1に満たないことに明らかである。経済的・精神的な自由がない社会では技術は進歩せず、したがってその軍隊の能力も低いものにならざるを得ない。孤立した北朝鮮では兵器を作ることができないことは、自由と科学技術が相互に関連していることを示している。

 しかし、そうはいってもたとえば中国の兵器の性能はアメリカや日本、ヨーロッパのものには劣るかもしれないが、江戸時代の日本がヨーロッパ列強に対抗しようとしたような、まったく比べ物にならないというほどのものでもない。また旧ソ連も、市民の自由はないが、それなりの攻撃・破壊能力を持ったミサイルを開発していた。とすれば、自由な社会の一市民が、全体主義国家の軍隊に真正面から立ち向かうことはやはりできないだろう。

 第2には、外国軍が侵攻してきたとしても、無政府社会におけるゲリラ活動は政府支配下におけるものよりも強いものになる可能性がある。ロスバードは相手が攻めてきた場合にも不服従を通すことや、市民の草の根ゲリラ活動によって、無政府社会は防衛できると主張している[11]。ホッペはこの点において、国防活動が武装市民とその契約による損害保険会社によって遂行されるという前提で、以下のように記している[12]

 

 この場合、侵攻軍は兵器を持たない人びとと向き合うわけではない。一般市民が典型的に無防備なのは、国家主義な領域に限られるのである。どこにおいても国家は、課税や没収活動を容易にするためにその市民を非武装にしている。その反対に、自由な領域における保険会社は、その契約者たちを非武装化しようとはしないだろう。そして、そうすることもできないだろう。なぜなら、最初に自衛のための究極的な手段をあきらめるような要求をするものに、一体誰が守られたいと思うだろうか。反対に、保険会社は、保険費用の低減という手段によって、むしろ契約者に武器を持たせようとするだろう。

 

 これは、現代のように一般市民が銃火器をもつことが許されていない社会では、ともすれば忘れられがちな重要な点だといえよう。たしかに無政府社会では兵器はより一般的に自衛手段として所持されているはずであり、それはゲリラ活動を容易にするはずである。

 ゲリラ活動が有効であるためには、市民の間に侵略者への強固な反対意思が存在することが必要となる。ヴェトナムにおけるゲリラ戦によるアメリカの撤退や、現在のイラクのイスラームのテロ行為によるアメリカの支配への反対運動は、それぞれ愛国心や宗教心など、ほとんど狂信的な集団によって支えられているのである。

 これに対して、それに至らない程度の侵略者への反対運動は成功しないように思われる。朝鮮半島には愛国反日運動は根強く存在していたにもかかわらず、20世紀の前半には日本によって35年間に亘って植民地化されている。

 また別の例をあげれば、ソヴィエトが支配していた冷戦時代のチェコでは、1967年からプラハの春と呼ばれる自由主義運動が起こった。しかし、これに対して武力介入してきたワルシャワ機構の戦車部隊の前に、抗議活動をしていたプラハの市民はなすすべもなく、それから20年にもわたる支配を受けている。

 たとえば、無政府社会においても、かならずや国家の再興を望む人びとはいるだろう。このような、かならずや存在するはずの国家主義者が侵略者に加担するのであれば、それだけで十分に侵略者の支配は有効なものとして、長期間存続し、あるいは永続するだろう。このような危惧はまったくの杞憂だとはいえない。

 また民間人が自衛のために持つ可能性のある銃器と、現代の戦争を遂行するための兵器では、その破壊力においてまったく異なったものであることは無視できない事実である。たとえばアメリカでは州兵がいるが、陸軍・海軍や空軍の一般的な戦闘遂行能力とでは雲泥の差がある。現代のような人工衛星や戦闘機、爆撃機、などを使った戦闘では、個人は基本的には相手にならず、なんらかの軍隊と呼ぶべき巨大で機能的な集団が必要であることは疑えないだろう。

 つまり、ゲリラ戦が無政府社会を最終的に救う可能性も否定できないかもしれないが、ゲリラ戦を最初から覚悟するのでないとすれば、まず外国軍に対抗するような軍隊組織が必要となるのである。そこで以下に、このような軍隊がどのように維持される可能性があるのかを、警備会社、損害保険会社、一般企業、公益的基金、の4つの種類について考えてみよう。

 

軍隊を持つ警備会社

 この問題についての、もっともありそうな推測の一番目は、いくつかの警備保障会社が、その契約者の獲得の手段として、外国からの侵略に対しても有効な反撃をなしえるような、軍隊部門を持つだろうというものである。確かに軍備は公共財であり、一般的には供給が過小になるかもしれない。しかし、本当にわれわれは、他国からの侵略に対して無防備であってかまわないとするような警備会社を選ぶのだろうか。

 前述したように、無政府社会において個人の選ぶ警備保障会社とは、現在の政党に酷似して、それぞれに異なった価値観を人びとに説得しようとし、それによって契約を得ようとするような会社組織となる。なぜなら、政治的な心をもつわれわれの心の中で「政治性」という概念にもっともなじみやすく、その核心をなすのは、犯罪政策、国防政策だろうからである。

 とすれば、警備会社の選択は、野球においてどのチームのファンであるかとか、どのサッカーチームのサポーターであるかという問題と同じほど、あるいはそれ以上に重要であり、どの自動車に乗っているか、あるいはどの通信キャリアを使っているかなどに比べれば、はるかに大きなアイデンティティを与える。

 愛国主義的な右翼、あるいはタカ派の性質を持った個人は、確かにどの社会にもいる。そのような人びとに訴えかける警備会社は、プレミアム付きの契約料の代わりに社会を他国の侵略から防衛することを主張するだろう。

 あるいは、複数の警備会社がそれぞれに異なった規模の軍隊を持つことがありそうである。その場合、各警備会社が互いに会合を持って、それぞれ国防を分担するはずである。そして、より大きな軍備費用を負担する会社はそのことを誇らしげに宣伝するだろうし、あるいは反戦左翼的な思想をうけつぐ警備会社は、防衛のための最低限度の防衛費用しか払わず、逆説的にそれを顧客獲得の宣伝とするように思われる。

 警備会社の軍隊がどのようなものであるにしても、北朝鮮のミサイル攻撃の危険性が高まれば、日本人の恐怖感は高まり、より大きな警戒態勢を整えるために、一般の日本人はより高度の警備保障と、高額の契約料に同意するだろう。あるいは、いつの日か中国の軍事力がはるかに高まれば、おそらく一般市民の感じる恐怖に応じて契約料は上がり、警備会社の軍備はより増強されることになるだろう。

 

損害保険会社による防衛

 警備会社と同じように、損害保険会社も契約者が外国軍の侵攻によって被る被害の補償をなす必要がある。そのため、保険会社もまた、外国軍の侵攻に対する効果的な軍隊を持つインセンティヴをもつことになるのである。リバタリアンの中では、ミーゼスやタネヒル夫妻、ホッペなどはこの考えを敷衍して、損害保険会社が軍隊類似の武装集団を維持するだろうと主張してきた。

 私はこのような可能性を否定はしないが、むしろ上述の警備会社のほうがより現実的だと考える。なぜなら、本質的に警備会社とは、犯罪行為という暴力を含む行為に対抗するための物理力を行使する組織であるのに対して、保険会社の本質的な部分はリスクを数理的に分散して、社会全体の効率性を高めるという、非暴力的なものだからである。

 おそらく保険会社が関係しているとしても、警備会社あるいは特殊な軍備会社にアウトソースすることになるだろう。その意味で、保険会社は他の軍隊組織と契約を結ぶことはあっても、防衛活動の主体たりうるような軍事的な組織を保持することはないと考える。

 

企業宣伝や財団による国防

 次に、もっと一般的な企業が、その社会的な意義の存在の宣伝として軍隊を持つということは考えられるだろうか。現実に、電通の「日本の広告費」という報告書によれば、2005年の時点で約6兆円、GDP比で1,2%が国内の広告に費やされている。このうち10%が軍隊の維持に使用されたとするだけで6000億円であり、それだけでそれなりの軍隊組織を維持できるだろう。

 実際に、軍備を持つことが企業の宣伝になるとするなら、それはやはり上述のような警備会社にとってもっとも有効だろう。とすれば、警備会社自体の宣伝費として、現在よりもはるかに小さな国防軍が維持されることになることは十分にありえよう。

 もう一つの考えは、個人の慈善活動としての国防活動を考えることである。翻って考えてみると、かつてアメリカの大富豪たちは、多くが大学を残してきた。スタンフォード大学、ヴァンダービルド大学、カーネギーメロン大学、シカゴ大学など、世界の英知の最前線にある大学の多くは私的な財を基盤に設立され、運営されてきた。あるいは現在の大富豪であるビル・ゲイツやウォーレン・バフェットなどは難病治療などの財団を運営している。

 ここで、国防活動は明らかに社会に暮らす全員にとって有益なものであり、他国からの侵略の脅威が高まれば、ますます高く評価される性質を持っている。仮に、国防を担う国家がなくなれば、富豪が行っている社会慈善活動などのいくばくかは、民間の社会防衛軍を維持するものになる可能性は高いように感じられる。

 前述したように、他国侵略の可能性の高い北朝鮮などの独裁国家では、国民生活が貧しいだけにとどまらず、その軍事技術も低くなる。これ対して、先進国家ははるかに豊かであり、多様な軍事技術の基盤を持っている。とすれば、現在の世界の富豪の資産である数兆円規模の財団でも、社会防衛のみなら十分に可能だろう。

 これまで述べてきたような、営利企業による、あるいは公益財団による軍隊は、現在とは違って、もっと活発に軍備を公開し、公開演習を行うと予想されよう。軍備の公開は仮想敵国に対して戦力を明かすことになるというマイナスがあるが、反対に、他国への物理力の示威行動にもなり、また一般人からの寄付金の募集にももっとも有効なものとなるからである。

 また、無政府社会において、軍隊を持つ団体はもっとも強大な物理力を持っていることが明らかであるため、つねに軍事的な独裁制への可能性が危険視される。おそらくは、警備会社が多数存在するように、軍隊は複数の団体によって完全に別々の部隊として維持されるだろう。これは無政府社会における、権力の抑制の原則になるからである。そして現実としては、維持される複数の軍隊が協力しても、隣接する政治勢力の侵略を防ぐことができないような状況になれば、結局は無政府社会は瓦解、吸収されるしかない。

 現時点において日本が無政府社会になってもっとも脅威となるのは、経済規模からいっても政治姿勢からいっても疑いなく中国である。中国と日本の関係は、中国とチベットの関係にも似ている。中国政府にとって、「日本は中国に朝貢してきた事実があり、文化的にいっても中国の一部である」と強弁することは、それほど不思議でもなければ、不可能でもないだろう。

 フリードマンは「私は税金を払うことは嫌いだが、モスクワに税金を払うくらいならワシントンに払ったほうがましである。なぜなら税金が安いからだ」という[13]。私見に引きなおすなら、完全な民族主義の放擲をするにしてもしないにしても、少なくとも東京から支配されるほうが、北京から支配されるよりもましである。なぜなら、政治的な自由、精神的な自由がある分だけ東京の支配のほうが北京からの支配よりも望ましいからである。

 しかし、例えばスイスは豊かな国であるが、そこには人的資源があるのみであり、人的資源を有する人びとの独立意識はひじょうに高い。このため、過去800年以上もヨーロッパの列強であったハプルブルク家のオーストリア帝国からも、ナチスのドイツからも独立を守ってきた。高度に軍事技術が進んだ現在でさえも、アメリカの介入するイラクやアフガニスタンをみても、人びとの信念は結局、他国からの介入を排除しつつある。同じことは、日本でも不可能ではないだろうという希望をもって議論を終えたい。

 

 



[1]  ここで憲法というものの意義を、1、尊重されるべき人権の宣言と、2、基本的な統治組織の規定、と捉えるとしよう。すると無政府社会における実質的意味の憲法は、1、各警備会社の持つ「定款」に謳われる人権とそれらを外側から規定する「刑法」や「契約法」、「不法行為法」あるいは「契約書」及び、2、警備会社の組織形態、意思決定の方法ならびに契約形態など、であるといえるだろう。

[2]たとえば1989629日第二小法廷判決 民集436664ページ。

[3]  たとえば「高輪グリーン・マンション殺人事件」(刑集38巻3号479ページ)は、捜査官の手配した宿泊施設に4夜にもわたって被疑者を令状なしに監視した例であるが、最高裁は被疑者の同意があったと考えられるという理由から、その違法性を否定している。

[4]  刑集32巻6号1672ページの事件では、覚せい剤の現行所持罪に関して、被疑者の承諾のないまま内ポケットを捜索し、その結果覚せい剤が得られた。この件でも、証拠の収集手続は違法であるが、証拠能力の否定にまでいたるような重大な瑕疵ではないと判示している。

[5]  Neely, Why courts do not work?,  p. 141

[6]  Neely, Why courts do not work?  p.137

[7]  Benson, The Enterprise of Law,  pp.119-122

[8]  『自由のためのメカニズム』 p.83

[9]  この考えはKreps 『企業文化と経済理論 (Corporate Culture and Economic Theory)』でも考察されている。

[10] For a New Liberty, p.238

[11] For a New Liberty, p.240

[12]  Hoppe 1998, p.50

[13] 『自由のためのメカニズム』p.181 フリードマンはアメリカを含めてすべての政府に対して否定的な見方を採る。