7、紛争仲裁会社による裁判と法の私有化

 これまで、明らかにしてきたように、裁判制度が果たしている役割には、まず民事的な紛争の調停や刑事的な裁判がある。政府に対する訴訟を取り扱う行政訴訟もあるが、無政府社会では行政訴訟は存在しない。被害者が犯罪者を告発する無政府社会においては、基本的に刑事法は民事法に吸収されるため、民事紛争のみが存在することになる。民事事件といっても、暴力的な活動や詐欺のような犯罪行為が関係すれば警備会社の担当者が検察官、あるいは被疑者の弁護人の役割を果たすだろう。

 詐欺のように民事事件なのか刑事事件なのか曖昧なものもあるが、はっきりと暴力犯罪に起因するタイプの民事事件(以下単純に刑事事件と呼ぶ)について考えてみよう。

 

仲裁会社

 無政府社会では、各警備会社は、別の警備会社との間に特定の仲裁会社をもっており、それによって逮捕した被疑者を訴追することになる。この意味で、仲裁会社は現在の裁判所そのものであり、被疑者の権利を考慮したうえでの手続きを進め、その結果として、無罪あるいは有罪の判決を言い渡す。有罪であれば、その刑期や罰金学を決定する。

 後述するように、法システムの進化が起これば、仲裁会社は犯罪者にどのような贖罪の方法がありうるかを、被害者によって表明される刑罰の方法についての希望、さらに犯人の気質や技能、知性、職業適性、などを考慮して決定するだろう。

 貸し金の返還を求めるような典型的な民事訴訟では、仲裁会社の活動は現在の裁判所と全く同じである。唯一の違いは、その裁判費用を誰が負担するか、という点についてである。現在のように、国家が裁判を行う場合、裁判費用は税金として集められる。つまり、個別の法律紛争とはまったく無関係の一般市民が負担している。

 民間仲裁会社の裁判では、敗訴した当事者がその費用を負担すると考えるのが、法制度の民営化論者の一致した意見である。これによって、敗訴の可能性の高い無駄な訴訟は、その敗訴の可能性の高さ自体によって抑制されるし、勝訴の見込みが高いが金銭的に余裕がないというような裁判は現在よりも頻繁に起こるだろうからである。これこそが、まさに「正義は実現される」制度である。

 これに対して、現在のように勝訴者の勝訴額の一部を弁護士が受け取り、同時に裁判官や書記官、廷吏や裁判施設の使用に伴う一切の費用が一般市民に押し付けられるという制度を考えてみよう。そこでは効率的な訴訟量が生み出されないことは、誰の目にも明白である。

 さて、仲裁会社はどちらかの当事者にとって有利であるような不公正さを持つため、正義は実現しないのではないかという、古典的な危惧についてはどうなのだろうか?いうまでもなく、当事者が不公正だと思う仲裁会社は即座に市場から退出することになる。フェアネスは仲裁会社の仲裁というサービスそのものの品質である。実際に、現在でも国際的な商事取引で利用されることの多い、アメリカ仲裁協会(AAA)は、公平だと考えられているからこそクライアントが存在し、事業が継続できているのである。同じように刑事においても、正義に即さない仲裁を受けざるを得ないような個人は不満をもつことになり、そのような仲裁会社と契約を持つ警備会社との契約を変更するだろう。あるいは、警備会社に問題を指摘して、別の仲裁会社と契約するように試みるはずである。

 つまり仲裁会社は、その仲裁、あるいは裁判が迅速で正義に沿ったものでなくては、次回からの顧客を失ってしまうのである。あるいは、その裁判が、迅速で正義にかなったものであれば、顧客は満足し、新たな顧客を引き寄せ、大きな利益が上がることになる。とするなら、ここでは、正義のベクトルは、一見して相反する利益第一の営利主義と同じにベクトルとなる。この意味において、民間の仲裁会社では、決して「正義」に即した裁判はできない、というありふれた批判の誤りは明らかである。

 

迅速な裁判の要請

 これらの紛争の仲裁会社として、現行の裁判システムはきわめて非効率的である。通常、民事裁判制度の理念として、1、裁判内容と手続の正当性についての適正、2、当事者を平等に扱うという公平、3、速やかに訴訟を進行させることによって権利を救済するという迅速、4、裁判所や当事者の労力・経費をできるだけ小さくすべきだという訴訟経済、があげられる。

 いうまでもなく、適正と公正の理念は、迅速と訴訟経済の理念との間には明らかなトレードオフがある。適正な手続は厳格な処理を要請するが、厳格な手続きをとれば当事者や裁判所の時間や労力が必要となって訴訟経済には反することになり、訴訟全体は遅延するだろう。よって、これらの背反する理念は、どこかに妥協点が見出される必要がある。

 現実の裁判制度は、あまりにも裁判が遅れがちであるため、紛争の解決としてはその機能が大きく失われている。どれほどに公正な裁判であれ、現在のようにあるいは10年後に賠償請求が認められても、関係する個人の生活の多くが過ぎているため、その意義が大きく薄れてしまっているのである。

 実際に2005年時点の日本の裁判所の資料においても、地裁における民事事件の解決までの平均的な訴訟期間は9.3ヶ月となっている。これは実質的に争いのない事件も含んだ平均値なので、実質的な争いがあり、証拠調べを行った訴訟に限ると、これは21ヶ月にもなる。その他の先進国においても、同じような時間がかかるのが通例である。いうまでもなく、地裁から高裁へと審議が継続されれば、決着するまでにはさらに2倍以上の長い時間がかかることになる。

 ほぼすべての国では強制力を持つ裁判制度は国家が独占しているが、国家は当事者が望むよりも裁判を遅延させる傾向があると考えられる。なぜなら、裁判の遅延は現実には、関係する官庁のより大きな予算と人員を要請することで役人の組織増大に役立つのに対し、迅速な裁判の利益を受けるのは裁判所ではなく、裁判制度の利用を強制されている国民だからである。ここには、建前上はともかく、明らかな利用者と制度運営者の利益相反が存在し、このことが世界的に普遍となっている裁判の遅延を生み出している。

 各裁判所を民営化し、それぞれに創意工夫を持って競わせるというのが、その解決法となる。無政府社会では、おそらく現在の通信会社や警備会社と同じように、国内に複数の系列の仲裁会社ネットワークというべきものができることになる。そこでは、建前上の審理の公正に限らず、それと同じように迅速なサービスの要請に配慮がなされる。なぜなら、多くの市民は若干の裁判の公正を犠牲にしても、迅速な問題解決を望んでいるからである。

 実際にアメリカでは、ビジネス契約をする際に仲裁会社も指定しておくことが普通である。これは国家が行う裁判活動はあまりにも判決にいたるまでの時間が長く、使い勝手が悪いためである。とするなら、世界的に民間の中立的で迅速な仲裁サービスには大きな潜在需要があるといえるだろう。その典型は、前述したアメリカ仲裁協会などの民間仲裁サービスである。

 なお、日本の刑事訴訟においては、現在でも憲法37条1項にいう刑事事件における被告人の「迅速な公開裁判を受ける権利」が害されたと考えられる場合には、刑事訴追を免除する免訴の規定が適用される[1]。このように刑事事件においては、一般に被疑者の身柄が拘束され、身体的な自由が奪われるために、人権問題として取り扱われるのである。

 しかし、上述のように同じ原理は、民事訴訟においても当てはまるはずである。なぜなら、私が何らかの不法行為において受けた損失を裁判で取り戻すためには民事訴訟制度を利用する必要がある。それが、専門的な事例であって弁護士の助力を必要とし、さらに相手が事実上無限の予算と時間的余裕を持つ国家であるような場合には、私の被害の救済は事実上閉ざされているからである。

 おそらく、無政府社会の仲裁会社は、現行の裁判制度に比べて圧倒的に迅速な裁判を実現するだろう。それが利用者の要求にもっとも合致しているからである。このことは全額が当事者負担である仲裁会社の裁判では、ほとんどの単純な案件が数日内に決着するようになっていることを見れば、およそ予想ができるのである。

 

法の進化[2]

  民営化された仲裁会社や警備会社は、その発足時には、すべてが現行の日本の法律に従った裁判をすることになる。しかし、それは国家が強制的に集める税によって運営されるわけではないため、即座に制度上の変化が要求される。

 このような法制度、あるいは社会制度の変化は、これまでの章に記述してきたとおりである。しかし、当初実現される法律制度は現行の日本法であり、それはこれまでの政治活動の非効率的で人権蹂躙的な部分を強く残したものである。無政府社会が実現した後は、法は次第に変化して、自由の法典へと変化していくだろうというのがロスバードの主張である。

 ロスバードは権利基底的なリバタリアンとして、『自由の倫理学』の序文において以下のように述べる[3]

 

「本書はリバタリアンな法の体系の概要を確立するが、それはアウトラインにすぎず、未来の十分に発展したリバタリアンな法典として私が期待しているものへの序説である。望むらくは、リバタリアンな法律家と法学者が立ち上がって、リバタリアンな法の体系を詳細にわたって打ち立てられんことを。というのは、未来のリバタリアンな社会として期待したいものが真に成功裏に機能するためには、そのような法典が必要だろうからである。」

 

 ここに我われは、自由の王国の樹立を信じるロスバードの気高い気概を思い知るのである。私はリバタリアンとして、このような宗教的な「自由」への帰依、「自由の法典」の編纂には素直に最敬礼する。

 しかし、私の考える無政府社会は、このような一元的な「自由」の自然法のもとにすべての人びとが集うという、自由の王国ではない。無政府社会では多くの人びとは自由な法制度を支持するだろうが、− そうでなければ、そもそも政府を廃絶されるような合意はなされないだろう − しかし、すべての人間が自由を中心とする同じ価値観を共有するとは考えられない。なぜなら、単純に人びとは自由そのものに対する価値観において、現在のところ大きく異なっており、将来もそうであり続けるだろうからである。

 各仲裁会社は民営化されれば、即座に新しい「独自の法律」の研究・検討に着手するだろう。それが日本国政府による過去の法律制度よりも効率的、あるいはより正義にかなうものであれば、そのような「法律」あるいは「法」を持つ仲裁会社は、より多くの警備会社と最終的な契約者を獲得し、より多くの仲裁事件を取り扱い、繁栄する組織になるからである。

 この反対に、人びとが適正ではないと感じる法制度を採用する仲裁会社は、直接的に当事者から利用されないか、あるいは仲裁会社を利用する立場にある警備会社によって次第に利用されなくなることになり、市場から退場することになる。この市場からの圧力によって、法は、選挙で選出される政治家ではなく、法の消費者としての人びとが適正だと感じる方向へと次第に変化していくことになる。

 これはつまり、法の進化である。それは国会によって生産される、無責任な公共財としての法律の変化などではなく、警備会社と仲裁会社によって私有財産として所有され、商品として人びとに提供される法という私的財産の変化である。無政府社会での法の変化は、一般の商品がより多くの顧客を獲得するのと同じように、消費者である人々の自発的な契約によって進展する法の変化プロセスなのである。

 フリードマンの例えを、日本向けに翻案してみよう。我われはトヨタと日産の車を比較できるが、このことによって彼らはよりよいクルマをつくるための競争のために、全方位において日夜努力をすることになる。結果としての商品は、すべてに点において完全に満足することはないかもしれないが、次第に非常に信頼性も高く、全体的に満足度も高いものになってゆく。

 これに対して、国家が法を作るというのは、国家がクルマを作るのと同じである。国家が一種類の車を作るなら、人びとは比較の対象もないままに、かつ比較という知的な作業から何も受け取ることのないままに、次第にクルマの性能や信頼性に興味を失い、車の品質は低下してゆく。これこそが、まさにすべての社会主義国家で起こった商品生産の歴史なのだ。

 法は「社会正義」を扱うから、社会には一つしか存在し得ないという意味で、複数が並存しえるような通常の商品とは違うのだろうか?いや、真にリベラルな立場の人たちが主張するように、社会正義というものは、人の数だけ異なったものが並存しているのが現実である。かつ第2章で述べたように、おそらく人の遺伝子がそれぞれ異なっており、それぞれが自らのコピーの繁栄をもくろむ存在なのである。このような人間という生物の進化論的基礎付けから考えても、価値観、なかんずく正義感の多様性が存在することこそが自然だろう。歴史に照らしても、明らかなその事実を認めないことから、全体主義的な社会主義の抑圧と貧困が生じてきたのである。

 しかし、法が多元的に存在する社会では、異なる正義はどのようにして調和的に並存することができるのだろうか。この問題は、私自身の経験からいっても、おそらく無政府主義のもつ、もっとも理解が困難な部分である。そのため、以下に法の多元性、その並存のための正義の貨幣投票のプロセスを、4つの例を挙げながら徹底的に論じてみたい。

 

多元的法制度:序論

 私は第3章において、現在の一元的な法律システムは、長い時間をかけて多元的な法システムへと変化してゆくだろうと予測した。では、ここでいう一元的な法律とは何なのだろうか?それは私がすることの法律効果が、相手が誰であろうが同じであるような法律のことである。これは現在の我われが通常生きている、すべての社会の法システムであり。反対に、多元的な法システムとは、相手が違えば法律的な結果も違うというものである。

 私の知る限り、これまでの社会では、加害者や被害者の身分に応じて異なった刑を科すという身分刑法が広く一般的であった。有名なハムラビ法典においても、平民と奴隷間の犯罪ではことなった刑罰が適用されていた。この事実は、現代社会の常識とは異なって、異なった警備会社・仲裁会社と契約している個人間で異なった取り扱いがあっても、人びとは急速にそれに慣れてしまう可能性を示唆しているかもしれない。

 さて、本書で考える多元的な法の並存の考えは、フリードマンの『自由のためのメカニズム』にしたがったものである。まず、多元的な法制度の並存のシステムというものを、承諾殺人の例を使って説明し、その後、いくつかの別の例を使って、より詳細に個別の論点について考えてみよう。 

 日本の刑法では、私はある人に請われてその人を殺すなら(嘱託)殺人に問われることになる。刑法202条には「人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺したものは、6月以上7年以下の懲役または禁固に処する。」とあり、つまり日本国では嘱託殺人は違法なのである。

 余談になるが、たとえば末期ガンの患者をその苦しみから逃れされるために安楽死させるのも、基本的にはこの罪を犯すことになる。安楽死を望む人は今現在もいるが、そういう人は医師による安楽死を認めているオランダなどに移住して、それを実現するしかない。

 これに対して、多元的な法システムにおいては、私が請われてあなたを殺すなら、その刑罰はあなたの属する法規範と、私の属する法規範の両方に関係して異なったものになる。

 まず、加害者と被害者の両者がともに、嘱託殺人を罰するという法規範体系を採用する警備会社・仲裁会社の顧客だとしよう。この場合、私はそれにしたがって警備会社から、嘱託殺人を処罰する仲裁会社に送られて処断されることになる。

 そして、両者ともに嘱託殺人を処罰しないという法規範システムを採用する警備会社と契約しているのであれば、当然ながら処罰はなされない。さて、加害者が嘱託殺人を罪とする法体系をとる警備会社と契約しているが、被害者が罪としない法体系をとる警備会社の顧客である場合はどうだろうか。被害者の法によると、嘱託殺人は処罰する必要がないのであるから、実はここには法的な問題は生じていないのであり、当然に加害者は被害者の警備会社から追われることはない。

 とすると、唯一の重要な局面は、加害者が嘱託殺人を処罰されない法システムに属する警備会社の顧客であり、被害者が処罰される法体系に属する警備会社の顧客である場合だけである。この場合、被害者の所属する法体系の「正義」は、嘱託殺人には法律的に保護されるべき利益(法益)が存在するものとしている。嘱託殺人という行為は、やはり「人を殺すなかれ」という規範に反しており、本人の同意が存在しても依然としてその違法性は完全には阻却されないと考えているからだろう。反対に、加害者の法システムの依拠する「正義」においては、嘱託殺人は、その守られるべき法益がすでに被害者の同意によって存在しないのだから、罰する必要はないというのである。

 原理的にこの二つの規範は完全に対立しており、妥協点は存在しないようにも思われる。しかし、本書で考える多元的な法システムでは、入札による複数の正義の共存が可能となり、その手続は以下のようになる。

 加害者の警備会社は、加害者の不処罰の結果を獲得するために、被害者の警備会社に一定の金額を提示する。被害者の警備会社がその金額で合意するなら、警備会社は金銭を受け取り、加害者は嘱託殺人を罪としない仲裁会社による裁判にかけられ無罪となる。かりに最初に提示された金額で合意がなされないのであれば、反対に被害者の警備会社から加害者の会社により大きな支払い金額が提示される。そして、この金額で合意されるなら、今度は加害者の会社は金銭を受け取り、加害者の身柄は嘱託殺人罪を罪とする仲裁会社によって裁かれ、それに応じた刑を受けることになる。

 この交渉ゲームは、加害者の無罪、あるいは有罪に対して、2つの警備会社がそれぞれいくらを出せるのかを競り落とす競売ゲームなのである。異なった二つの正義感が社会に存在する場合が、現実にある。しかし、その場合でも、その正義感を押し通そうとする思い入れ、あるいは精神的なエネルギーには差があるはずである。それらを直接に計測することはできないが、貨幣によって入札させることはできる。そして、より高額のオファーを出したほうが、その正義を通すことになるというのが、ここでの解決策となるのである。

 さて、これは一体「正義」と呼べるのだろうか?あるいは、それは単なる行為許可の買収行為ではないのだろうか?そうともいえるし、そうでないともいえよう。

 まず、警備会社という媒介物が存在しないという状況で考えるのが理解しやすい。加害者である私は無罪を信じているし、被害者であるあなた(現実にはあなたの親族)は私を有罪だと思っているので、明らかに正義は対立している。私があなたの金銭的オファーを受け入れて有罪になるとしよう。このとき、私は有罪にはなるが、金銭を手に入れているのであるから、その結果に満足しているはずである。つまり、あなたの親族は、私の有罪判決を買ったのだともいえるだろう。

 反対に、あなた(の家族)が私のオファーを受け入れて、私は無罪になったとしよう。私は無罪判決を買い取ったことの対価として金銭を失うが、これは通常の商品を買ったことと同じである。同時に、あなた(の親族)は私を有罪にする代わりに金銭を得て、それによって私を有罪にすることよりも大きな満足を得たはずである。そうでないのなら、そもそも無罪の金銭的オファーを受けるはずがない。

 どのような金額でのオファーを受け入れるのかは、このような二者間の交渉においては、両者がともに相手に対するモノポリストである以上は、簡単には予測できない。たとえば、通常、我われは自分の正義を押し通すことについては、妥協しないふりをする。しかし、金銭的な支払いと個人的な感情とを切り離すために、多くのスポーツ選手やその他の芸能人の金銭契約では、典型的に代理人を通すことによって交渉の最終的な決裂を避けているのが現実である。したがって、無政府社会における正義のオークションにおいても、警備会社・仲裁会社が実質的な代理人となることによって、我われは交渉からかならず利益を引き出すことができるはずである。

 実際、警備会社はおそらく実際に契約者の代理人でもあり、その金額や妥協への態度などは評判となって、事件の後は人びとからの評価の対象となるはずである。どれだけの正義を実現してくれる会社なのかを人びとは気にするだろうが、同時に警備会社との警備契約の値段付けにも十分な注意が払われるだろう。警備会社の経営者は、常に個別の状況での正義を押し通すべき要請と、より経済効率的な経営のために重要ではない状況での正義をあきらめて、契約者の警備保障負担額を減らそうとする要請の、2つの相反する必要性の最適な妥協点を探し出す必要がある。

 このような社会では、はたして「正義」は実現されているといえるのだろうか?正義を入札に置き換えるということは、単に金持ちが考える正義が押し付けられているだけなのだろうか?これは、少なくとも哲学的には興味深い疑問であろう。

 しかし、我われの現代社会では単一の法規範が、全員に画一的に押し付けられている。そして、現実にそれを決めるのは、社会のなかでも組織化された利益団体として有力な人びと、裕福な人びとであり、決して政治力のない下層市民ではない。同じように、独占を許された警察組織は、貧しくて社会的な地位もない人びとよりも、豊かで政治的に有力な人びとを、おそらくより厳重に警護している。

 無政府社会のオークションでは、貧者の正義が富者の正義に常に負けるわけではない。貧者のもつ金銭の総額は、富者のそれに匹敵するか、あるいは凌駕することもあるだろう。さらに重要なことは、個別の正義感を他人に押し付けることに対して、一体いくらの金銭的な価値を見出すのかは、個人の貧富には関係がないことが多いことである。たとえば、実際のところ、私は麻薬は自由化されるのが望ましいと考えているが、パターナリズムの視点から禁制品とすべきであり、所持は処罰されるべきだと考えている人たちは圧倒的に多い。しかし、他人の麻薬所持の禁止に対して、どれだけの金額を出す人がいるだろうか。おそらく多くの人は自分の金を払ってまで禁止を押し付けようとはしないのではないだろうか。

 麻薬が禁制品なのは、法が一元化されているからである。一元化された法規範を社会に押し付ける政治的な解決では、麻薬を好む人の税金からも麻薬の取締りのための警察費用が捻出されてしまう。つまるところ政治活動とは、本人の意思に反した明らかな強制のシステムなのだ。

 現代の民主主義社会では、我われは相互の正義感が対立することは基本的にはないのだという幻想の中で生きているとされる。あるいは、ハーバーマス的の重視するような対話活動によって、政治的な見解や価値的な見解の相違は克服されるという、まったく非現実的な仮定のうえに政治制度を構築してきたともいえるだろう。しかし、そうではなくて、相互の正義は明らかに異なっていることを前提として、具体的な問題の解決に対しては、貨幣による投票を行うことこそが効率的なのだ。

 当然それは、我われの正義感を「商品化」することを意味する。それゆえにこのような法と正義の商品化には、市場主義に反対する社会主義者はいうまでもなく、常識的で健全な道徳感覚を持つ市民までもが混乱し、義憤を覚えるかもしれない。しかし現実問題として、政治的な対話が成し遂げるのは、対話をする意欲と時間のある個人による、意欲も時間も能力もない人びとへの価値観の押し付けにすぎない。

 繰り返すなら、たしかに多元的な正義の共存というのは、我々がこれまでに培ってきた直感からは明らかではない。しかし、異なった正義のオークション取引においては、お互いが得をしている。正義を金で買ったほうはその正義を押し通したことに満足し、正義を金で売ったほうは正義をあきらめる代わりに対価を得て、何か別の有意義なものを手に入れることができる。

 同じように、私がこの原稿を書いているパナソニックのノートパソコンを買ったとき、パナソニックも私も両方が得をしている。そうでなければ、売買契約が成立することはない。パナソニックは価格を決定し、ウェブ上で販売する。私は購入を決意し、申し込み、カード決済をする。私もパナソニックも、それぞれ独自に自らの利益になるように取引をした。同じように、個人の何らかの行為を正当化する際には、わざわざ政治家に投票して議会で決めてもらう必要などはない。政治とは効率が悪いシステムであり、もっともそのパソコンを必要としている人の手には、おそらくパソコンは渡らないものだからである。

 さて、無政府主義の社会的な結果が、一体全体どのようなものになるのかを的確に予測することはできない。100年前の知識人が、現在の社会状況を予測することすら難しい。さらに無政府社会が実現すれば、社会を規定する法律制度もまた現在社会よりもはるかに速い速度で変化してゆく。とはいえ、どのような社会が成立し、機能しているのかについて予測してみることは、我われの現在の社会構造の分析にも光を投げかけるだろう。

 

多元的法制度と死刑の存廃

 さて、上述の多元的な正義の共存の制度を、死刑についてもう一度当てはめてみよう。

 まず強制力を持つ政府が消滅した場合、それまで有効であった法律がそのまますべての仲裁機関で有効とされる。なぜなら、既存の法システムだけが実務家の実践として混乱が生じないような整合的なものであるからである。

 しかし法は各仲裁会社、あるいは仲裁会社集団によって、時間がたつにつれて次第に異なったものへと進化してゆく。このような法の進化の過程と結論を、この節では死刑制度の多元化について見てみよう。現代社会の倫理観において、死刑制度については、重要な意見の食い違いが生じているからである。死刑制度は現在の日本でも廃止論が存在しており、世界的に見ると、EUやアメリカの多くの州などの多くの地域で廃止されているという意味で、もっとも理解しやすい例なのである。

 まず現行の日本の刑法学では、論争はあるものの、死刑は憲法36条で禁止されている「残虐な刑罰」にはあたらないと考えられており、実際に死刑は数年に一度ずつ執行されている。これに対して、反対派勢力もまた人権派弁護士をはじめとして、根強く存在している。彼らは、死刑制度を廃止し、そのかわりに終身刑にするべきだという。

 おそらく無政府社会においての死刑反対派は、少なくとも自分たちについては、死刑を廃止して、かわりに終身刑、あるいは刑務所内労働による完全損害賠償後の釈放のような制度を採用する仲裁機関の顧客となるだろう。日本においても、明らかに死刑廃止の要求をする集団が存在する以上、複数の仲裁機関のうち少なくともひとつは、死刑を廃止した刑法を適用することを宣言し、顧客を得ようとすると考えられよう。あるいは、そのような「新たな刑法」を最大の契約要素として、仲裁市場に新規参入してくる仲裁会社もあるかもしれない。

 このような死刑を廃止した刑法は、死刑の存続を主張する仲裁会社と並存することになる。そしてこれこそが、死刑を廃止した「進化した刑法」と死刑を存続する刑法の社会内での多元的な正義の並存となる。

 では、このような二つの刑法が並存する社会では、どのような刑罰が課されるのだろうか。

 まず、第1の場合は、被害者も犯罪者も死刑存続の警備会社・仲裁会社と契約している場合である。この場合は、当然に死刑が適用される。第2の場合は、双方が死刑廃止の契約をしている場合で、この場合、当然ながら死刑は適用されない。第3の場合は、被害者が死刑廃止、犯罪者が死刑存続の契約をしている場合だが、この場合も被害者は犯罪者の死刑を望んでいないわけだから、死刑は適用されず、問題は生じない。

 結局、問題が生じるのは、被害者が死刑存続の契約者、犯罪者が死刑廃止の契約者である場合である。この場合、被害者の選んだ仲裁会社で裁判がなされれば犯罪者には死刑が執行されるが、反対に犯罪者の選んだ仲裁会社で裁判がなされれば死刑になることはない。どちらも、自分が選んだ仲裁会社での裁判を望むだろう。両者の警備会社はどのような判断を行うのだろうか?

 二つの警備会社からはそれぞれに渉外担当が会議を開いて話し合い、その結果どちらかにいくらかの金銭が支払われて、妥協的にどちらかの仲裁裁判所に訴えを提起することになる。たとえば、死刑廃止側の警備保障会社が死刑存続側の警備会社に一件の事件につき、あるいは一人の犯人につき1億円を支払うというような条件において、死刑廃止の刑法を持つ仲裁裁判所が利用され、死刑は適用されないということになる。

 この1億円での一方の裁判所への提訴という妥協点では、双方の警備会社が納得することになる。そうでなかったなら、双方は納得することはないだろう。では以下に、その利益を双方について考えてみよう。

 廃止を主張する警備会社はそれを押し通すことによって、人権派の人びとの間での評価を高め、将来の顧客をひきつけることができるだろう。しかし、1億円を支払うことは、将来的にはより高い契約金で低いレヴェルの保護しか顧客に提供できないことも意味している。これに対して、死刑存続を主張する警備会社は、死刑廃止を受け入れる代わりに1億を受け取り、それによって契約者により安価で手厚い保護を将来的に提供できるのである。その代わりに、死刑をあきらめることによって顧客のどれだけかは「弱腰」であるとして、この会社から離れていくことだろう。

 反対の場合について考えてみよう。廃止を主張する警備会社に、死刑存続を主張する警備会社が犯罪者一人当たり1億円を支払うことで和解したとする。廃止を主張する会社は「弱腰」であると非難され、将来的にひじょうにハト派的な人びとを顧客として失うかもしれないが、同時に既存の顧客に対しては、より安価で手厚いサービスを提供できる。また死刑存続派の人は、結果に納得する代償として、より高価で質の低い警備サービスを購入せざるを得ないことになるだろう。

 もちろん、双方が納得できない場合には実力行使の応酬という選択肢もあるが、これは非常に高くつく紛争解決法であり、かつ死刑の廃止論者、存続論者のどちらにしても、ほとんどの顧客の望まない解決法だろう。

 このように考えれば、どちらの警備会社にとっても納得できるような、どちらかがいくらかを支払うことによる妥協点が存在するだろう。その妥協点は、死刑廃止派がどれだけ、死刑の廃止に対価を支払う気があるのかと同時に、死刑存続派がどれだけの費用を払っても犯罪者に死刑を科したいのかという金銭的な支払い能力と意欲に依存することになる。

 もっと現実的には、このようなケースごとの話し合いは交渉費用である人件費が高くつくため、事後の話し合いは行われず、すべての2社間で事前に決められた手続きに従って、死刑の存廃どちらかの仲裁会社に訴えが提起されることになるだろう。

 さて、この刑事手続きを聞いて、やや奇妙に思った人も多いだろう。しかし、これは現在の傷害保険会社が、ある事件によって発生する損害の負担の交渉として行っていることとまったく同じなのである。同じことを犯罪の手続きに応用するのが奇異に感じられるのは、我われが刑事裁判制度はそもそも正義の実現の制度であり、正義の実現に金銭が絡むのはおかしいと感じるからにほかならない。

 たしかに正義はお金では買えないというのはある程度納得できる信念だが、ある正義を押し通すためにどれだけのコストをかけるのかという問題になれば、小さな正義には大きなコストをかけるのが割に合わないということもまた、多くの人は納得するだろう。

 たとえば私自身についていうならば、私は現在よりも限定された形ではあっても、やはり死刑制度は存続するべきだと考える。たとえば、現行犯として明らかな大量殺人の場合や、オウム事件のように明らかな集団犯罪によって、大量殺戮が行われたような場合である。

 しかし、死刑反対派の人たちが強い思い入れをもってその感覚に対して対価を支払い、それによって私のような死刑賛成派の人間にとって、今後の警察費用、あるいは無政府社会における警備会社との契約費用が無料になるとしよう。私見を率直に述べるなら、反対派の人たちがそれほどに強い思い入れと、それに相応する金銭的な支払い意欲を持っているのなら、死刑を廃止して無料の警備を受けることも、納得できる妥協点であるように思われる。

 このような思考実験について、読者の皆さんはどう考えるだろうか?いかなる対価を受け取っても、死刑は廃止するべき、あるいは存続するべきだと思うだろうか。もう一度考えてみてもらいたい。

 

多元的な法制度と麻薬規制

 麻薬は、オランダでのマリファナの個人使用を除いて、ほとんどの国で禁制品になっているのが現実である。無政府社会では、基本的にすべての向精神薬は自由に服用できることになるだろう。しかし同時に、多くの人はまた、自分の周りに麻薬中毒の人たちが数多くいるような状態は望んではいない。このような麻薬を使いたい人たちと、麻薬を使いたくない人たちとの妥協的な社会はどのようなものになるのだろうか。

 ここでも、麻薬を服用することが「犯罪」となるような法制度を望む集団が、麻薬を許容する法制度を望む集団に対して金銭的な支払いによって、その禁止を押し付けることが可能となることも抽象的には可能である。

 しかし、実際に、他人が麻薬を服用することを禁止するための金銭支払いを、自発的に行う人が大量にいるはずもない。麻薬禁止主義者は、「麻薬はそもそも人間にとって害悪であるから、麻薬を好む人たちの金銭支払いによって禁止が強制されるべきだ」、と考えているのが普通である。自分の資源を持ち出してまで麻薬の使用を禁止することなどとは、考えたこともないだろう。

 おそらく、この問題はあらゆる「公共財」にまつわる過剰な使用という問題である。法制度は、現行の国家体制では政府の供給による公共財である。政府の公共財の資金源は、ほとんどが他人の税金によるものであり、自分自身はそのわずかな部分しか負担しないため、人びとは必要以上のダムや公園を望むことになる。同じように、法を強制するためのコストは税金で支払われるために、誰もが自分の望む法制度を他人に押し付けるために活動し、法は必要を超えてはるかに多くなってしまうのである。

 とするなら、無政府社会では、麻薬は原則的に自由に服用できるようになるだろう。

 さて、場所的に言えば、麻薬が禁止されるのは、大規模なショッピングモールやその他の私有施設であろうと予測されよう。現代でさえも通常、ショッピングモールのほとんどの場所は禁煙である。いうまでもなく、明らかな酩酊状態の人物がいれば、警備員は何らかの措置を取るだろう。同じように、多くの大規模タワーマンションやゲーティドコミュニティでは麻薬の多く、特に覚せい剤などの覚醒水準を高めるようなもの、つまり暴力犯罪へつながりやすい物質の服用が禁止されるだろう。おそらく、そのような規約に納得したものだけが、コミュニティに住むことを許されるようになる。そこでは、実質的に麻薬の使用が禁止された法制度が採用され、それに納得しない人たちは麻薬を禁止しないような地域、あるいは施設に住むことになるだろう。

 しかし、原則は自由であるとはいえ、麻薬の服用の禁止はそれだけにはとどまらないかもしれない。ちょうどアルコールを服用して自動車を運転するのが犯罪として取り扱われるように、私有化された道路網のみが存在する無政府社会では、麻薬を服用して路上に出ることが一般的に「道路会社との契約によって」禁止されるかもしれない。それは、興奮性の麻薬中毒者が犯罪を犯す可能性は、アルコール中毒者の自動車運転が引き起こす事故の可能性と同じように、その服用によって高まるからである。

 このように私的な活動の自由は、無政府社会では原則的には自由なものとなるが、実際に他人との関係や他人の私有財産上では多くの制約が課される。しかし、それはその他人の持つ私有財産的としての権利との妥協点なのである。

 このような、無政府社会における自由が、はたして現代社会よりも大きなものになるのかどうかは興味深い論点である。第7章でみるように、ある意味で無政府社会はより自由な社会だといえるだろうが、肖像権やプライヴァシー権その他の積極的な人格権については現在に比べて不自由な世界となるだろう。

 

自白の証拠能力と多元的法制度

 法の多元的な進化について考えるなら、死刑のような大きな論争のある問題だけでなく、より小さな論点は当然にはるかに数多く存在する。ここではそういったたくさんの小さな論点の中から、死刑などに比べると、法律家のみが議論してきたテクニカルな議論として、自白の証拠能力について論じてみよう。

 日本国憲法では、刑事事件の「被告人」は弁護士をつけることが必要であると定められているが、「被疑者」の段階では弁護人をつけることは要求されていない。そして刑事訴訟法における重要な論争点の一つには、こうした弁護人がついていない状態での被疑者の自白の信憑性が挙げられる。

 一般に逮捕されて間もない被疑者は、警察署内の一室に閉じ込められ、誰からも精神的なサポートを受けることができないままに取調べを強要される。このような状態で犯罪行為を自白することは頻繁にあるが、そのような自白はそもそも任意性が乏しく、警官によって強制されたものであることが危惧されるのである。このような事態は、人権擁護派の実務法曹の見解と、警察あるいは検察の見解が真っ二つに分かれざるえない性質の事柄であり、どのような頻度でこのようなことが起こっているのかはわからない。しかし、きわめて低い頻度ではあれ、明らかな冤罪事件があることからすれば、確かに起こっていることは疑いもない事実である。

 さて、自白が強要されているような状況においてなされたものであり、その自白が被疑者の有罪を決定付けるような唯一の証拠である場合には、その自白に基づいて犯人を処罰するべきかどうかは難しい問題になる。あるいはそのような状況下における自白の証拠能力の問題だといってもいいだろう。

 この点に関して、現在の日本の実務では、自白がなされた状況が果たして強制的であったとまでいえるかどうかも含めて、裁判官の事実認定の範囲内の事柄であるとする。しかし、おそらくは「弁護人がついていない場合の自白は全面的に信頼できないものであり、証拠能力をもたない」という意見もまたある程度の支持を受けるだろう。

 この場合、どちらの手続きが正しいのか、正義にかなっているのかは、明らかに自明ではない。手続きは並存することが可能だし、おそらくは並存することはある程度自然であろう。現に戦後一貫して数多くの人権擁護派の弁護士が、自白の強要につながりがちな日本の警察活動のあり方に対して警鐘を鳴らしてきた。

 なお、無政府社会では以下に説明するように刑事訴訟は民事訴訟の一類型でしかないため、厳格な証拠能力についての基準は採用されず、裁判官の有罪無罪の決定に関しても、心証の形成は「合理的な疑いを入れない証明」ではなく、「証拠の優越」の程度で決定されることになる。その場合は、上述の問題はあるいは存在しないことになるかもしれない。

 

正義に対する入札の是非

 多元的な法律が存在し、その適用が金銭的な支払能力の多寡に明示的に依存する上述の制度は、人類がこれまで経験したことのないものである。

 いまここで仮に、多くの裕福な人たちが信じる正義が死刑の存続であり、貧しい人びとの多くが感じる正義が死刑の廃止であるとしてみよう。豊かな人たちを主な顧客層とするような警備会社Aは、貧しい人たちを主な顧客層とする警備会社Bとの交渉をする。結果的に、AはBに対する大きな金銭的な支払いの対価として、死刑反対の貧しい被疑者と死刑賛成の豊かな被害者の事件においては、死刑存続の仲裁会社に提訴することになったとしよう。

 このような事態をどう見るべきなのだろうか。おそらく、正義の入札を拝金主義だとして攻撃するような精神性の持ち主にとっては、貧しい人びとの正義感を豊かな人たちが「金で買い叩き」、その結果、貧しい人びとには不正義が押し付けられたと考えるに違いない。

 その反対に、豊かな人の立場に立って事態を考えてみよう。彼らはその正義を社会で実現するために、大きな対価を支払わされたと考えるはずである。つまり別の人びとが死刑を廃止せよという不正義な主張をしており、その主張に妥協するために金銭を「ゆすり取られた」と感じるのである[4]

 もちろん、この論理は、死刑の存廃についての立場が逆であっても、まったく同じである。

 問題は、つねに社会には本質的に多様な正義感覚が並存しているという事実にある。その原因がどのようなものであれ、人びとの間で意見が対立することは不可避である。これまでの「政治的」な解決法では、このような違いを解消するために、独裁制では独裁者が、民主制では有権者による投票か、あるいは代議士による投票によって多数者が、その意見を反対者に押し付けてきた。

 金銭による解決は、たしかに政治活動を神聖視するような、プラトン的な理想主義からすれば望ましいものだとはいえないだろう。そのような感覚は私自身も持っているし、商業的な金銭獲得行為のすべてを侮蔑する傾向を持ちがちな法律家であれば、ますます強く感じるだろう。

 しかし、金銭による解決に代わる代替案は、これまでになされてきた政治という強制行為によるもの以外には存在しない。政治活動というのは、理想としては反対者が納得することによって問題が解決することになっているが、歴史と現実においては独裁者や多数者による反対派への強制がなされているにすぎないのだ。

 これに対して、貨幣による入札によって正義が決定される無政府の制度では、支払う側も支払われる側も納得している。それは、どちらにとっても、合意がなされない状態よりも、より望ましい状態になっていることを意味している。どちらかが納得しないならば、取引は成立しないだろう。

 前述したように、このような取引はこれまでの人類の歴史には存在しなかった種類のものだとはいえる。しかし、翻って考えてみると、我われの精神性と決定的に適合していないとまではいえないだろう。

 たとえば、夫との精神的な不和を抱えて離婚を考えているが、離婚した場合に経済的に生活が苦しいことがわかっているために、離婚できない、あるいはしない主婦は、世間には数多くいるようである。このような女性たちは、ある意味で純粋に精神的に不快な状態と、金銭的な利益を比べて、婚姻生活の継続を選んでいる。この意味では、上述の正義をあきらめる代わりに金銭的なサービスを得るという行為と、その状況論理は同じである。

 同じように、近代以前の歴史を見れば、日本国や朝鮮歴代王朝は中国に朝貢して、その見返りに中国王朝からその支配権力を認められてきた。しかし、考えてみると、これもまた、ある種の精神的な満足を犠牲にして、物質的な見返りを得たのだと評価されるだろう。なぜなら、どんな民族であれ、他の民族と対等ではないと考えるのは精神的な苦痛を伴うはずだからである。現に、現代社会では、どの国や民族も建前上、対等であると主張されていることをみれば、これは明らかだろう。

 法制度の適用への入札によって並存する多元的な正義の調停を行うことは、たしかに現代の常識からすれば奇妙な拝金主義のようにも感じられよう。しかし、金銭とは社会において有益なものを他者に提供することによってのみ、得られるものである。このことを考えれば、言下に否定されるほど不条理な制度ではないだろう。

 

外国人との間の裁判について考える

 多元的な正義が並存するという命題そのものは、実は現代社会においてもそれほど不思議なものではない。なぜなら、現代の世界は主権国家によって分割統治されており、それぞれの地域においては、相当に異なった「正義」が実践されているからである。

 たとえば、日本人である私がオランダに行ってマリファナを吸引したとしよう。よく知られているように、オランダではマリファナはタバコと同じように合法であり、また多くの人が精神安定剤的に使っている。同じように、私は日本ではガンの末期においても自己の意思による安楽死をすることは法的に許されていないが、オランダではそれも可能である。また死刑制度についてはヨーロッパでは多くの国で廃止されている。

 私の親族がヨーロッパ旅行中に、多くの他の多くの人たちとともに残虐に殺害されたという場合を考えてみよう。私はその場合、殺害犯人には死刑を望むだろうが、ヨーロッパの現地法は死刑を廃止している。この状況で、犯人に死刑を望む私にできることがあるだろうか。現実的には、私は現地法による犯人の処罰を見守ることしかできない。

 残念ながら、現代の主権国家の並存によって多様に異なった正義が行われている。しかし、現実的には、それは毎年非常に多くの人びとが観光旅行やビジネス旅行を世界的な規模で行っているという事実の足かせになってはいない。つまるところ、われわれの多くはある程度の正義感の差が存在することを、それほどに重要かつ絶対的な問題だとは思っていないのだ。

 私が見るところでは、ほとんどの人びとは文化相対主義的な考えから、「言語的・歴史的な壁があれば、正義感も異なるのはやむをえない」と感じ、国家間の正義感やそれに基づく法制度の違いの存在について認めているのである。ただ、それが同一国内で、同じ文化や言語、歴史を共有するような集団については親近感が生じるために、社会の中に異なった正義の基準が並存することなどありえない、そして許されないと感じるのだ。

 このような事実にかんがみれば、上述のような正義の入札は、むしろ効率的で制度であり、同時に優れた社会的な妥協点を見出す仕組みであるということがはっきりとする。正義はあまりにも重要であるために金銭的な取引になじまないのではなく、あまりにも重要だからこそ政治プロセスによって強要されるべきではなく、自発的に金銭的な契約によって取引されるべきなのだ。

 

功利主義再論

 第2章において、私は「功利主義と市場主義は異なっている」ということを説明した。それは、以下のようなことであった。まず功利主義においては、社会を構成する人びとの主観的な幸福度の総和の向上が目的とされる。そこでは裕福な人であれ、貧しい人であれ、その主観的な幸福を換算する場合には同じように合計される。

 ところで、経済学者、あるいは功利主義的な社会哲学者の多くは、一般に人はお金を多く持てば持つほどに、最後の1円の与える幸福度の向上は少なくなると考える。これを、経済学では限界効用逓減の法則と呼ぶ。

 たとえば、空腹時に食事をする場合には、最初の1口は非常においしいが、たくさん食べるにつれて次第に次の1口から得られる満足は減ってゆく。同じように、年収が1億円の人がもう1万円を余計に消費するよりも、年収が100万円のギリギリの生活をしている人がもう1万円を余計に消費するほうが、より大きな幸福の向上が見込めると考えるのである。

 これが本当にそうなのかどうかは、人の精神の満足度を直接に測定できない以上、客観的には計測することはできない。しかし、我われの多くは貧しい人には寄付をすることがあるが、金持ちに寄付をすることは考えられない。この事実は少なくとも、我々は経験的には、より裕福になるにつれて、追加的な所得からえられる満足度が下がることを認めているのだろう。

 さて、この功利主義的な考え、あるいは限界効用逓減の考えを、上述の正義の入札についてあてはめるとどうなるだろうか。

 裕福な個人の金銭的な支出は、貧しい人の支出よりも犠牲にする効用の量は少ないはずである。現在は政治的プロセスによって、死刑の存廃が決定されている。そしてこれは国内では強制されているため、死刑の存続派は金銭的な支払いなしに自らの正義を死刑反対派に押し付けているのである。ここで無政府社会が実現したとして、たとえば死刑の廃止が圧倒的に貧しい個人からなる集団によって支持されており、その金銭的な支払いにおいて、反対集団、この場合は死刑存続の集団に受け入れられることになったとする。功利主義的に考えれば、この場合、無政府社会は、現在よりも望ましくなくなってしまう。

 なぜなら、貧しい集団による金銭支出は大きな主観的な代償を伴うのに対し、その金銭を受け取る裕福な集団はそれほどの主観効用の上昇はあまりないからである。つまり、政府があったときには貧しい人たちに無償で与えられていたものが、無政府社会になった場合には、その維持に裕福な人たちに対して金銭を支払う必要が生じるということである。これによって、貧しい人たちは政府があったときよりもより貧しくなり、功利主義で規定される社会全体の総効用は低下してしまう。

 とはいえ、このような極端なケースについて考えることには、いくつもの批判が思いつく。

 第一には、死刑制度の提要をめぐる集団間の軋轢は、死刑廃止論者が加害者で、死刑存続論者が被害者である場合に限られる。その他の3つのケースでは、それぞれの集団内において、また集団間において完全に納得できる正義が実現しているのである。現在のように、死刑制度の存在、または廃止が一方的に反対派に押し付けられる状態に比べれば、これらの場合には、非常に大きな効用の上昇があるはずである。つまり無政府社会は、より社会的な厚生に合致している。

 第二の批判は、このような政府行為の廃止の効果は、すべての法制度に関して当てはまることである。たとえば、国内の農業保護の制度を廃止した場合、本当に農業従事者が貧しいとすれば、そのような制度の廃止は功利主義的にはマイナスになる。もっと一般的にいっても、功利主義は結果の平等を指向することになるため、すべての所得格差を拡大するような変化に対してマイナスの評価にならざるを得ない。

 よって、私のように、功利主義的な考慮もある程度重視するような人間が無政府資本主義を支持するということは、1、政府活動が社会全体の総生産力を低下させており、2、さらに強制力を行使する政府によって我々の自由は制限されている、という無政府社会の持つ二つの利点のどちらか、あるいは両方を非常に強く信じる必要がある。

 第三の批判としては、もっと現実的な認識がある。つまり、正義感の違いについて所得階層ごとに異なっているとは思われないのである。死刑反対派と死刑存続派は同じような所得集団から構成されているようであり、その他のもっと一般的な人権に関しても推進論者と反対論者の所得が顕著に異なるということはないようである。

 とするなら、無政府社会では前述したように、少なくとも意見の同一な人たちの集団内でそれぞれの感じる正義が実行されることは、それ自体大きな利点であり、例外的な状況を考えるよりもはるかに功利主義にも合致した社会になると考えられよう。

 

被害者による刑の選択

 さて無政府社会には国家がないため、刑事訴訟の当事者となって犯罪者を罰するのは国家ではありえない。被害者の権利を侵害したという事実に基づいて、犯罪者に対して罰を課すのは、被害者とその代理・代行者である警備会社になる。そして、現在のように国家によって運営される刑務所がなければ、刑のあり方も必然的に異なったものになるだろう。

 近代国家は自由刑を刑罰の基本としてきたが、これには犯罪者の拘禁のために、拘置施設や施設運営者の雇用、さらに犯罪者の食料といった生活費などといった資源が必要である。それだけでなく、犯罪者を社会から隔離して、稼得能力を奪い、被害者の救済もより困難にしてしまう。この意味で、社会的にみて完全に非生産的である。

 これに対して、民刑一致の無政府資本主義社会の刑罰の種類としては、被害者とその家族への多額の慰謝料を含む懲罰的な財産刑が基本となり、その支払いは犯罪者の労働による賠償が原則となるだろう。それに加えて、警備会社によって維持・運営される労役所としての刑務所も存在するのではないだろうか。また後に詳述するように死刑になった犯人の場合には、現在の人権感覚では不可能であるような、人体の一体的あるいは分解的販売が許される可能性もあるだろう。

 さて、被害者による犯罪者の処遇形態の選択について、より詳しく考えてみよう。現在のような国家的な統一法規が存在しなければ、どのような刑罰を犯罪者に科するのかは、そもそも警備会社と被害者との契約に依存することになる。たとえばどのような国においても、携帯電話のキャリアや傷害保険会社などは多様な契約オプションを顧客に提示しているが、このような消費者主権と同じような意味において、警備会社は被害者の意向に沿って、個別の事件の犯人の処遇を決定することになる。この場合、現在の自由刑の制度を出発点として、各警備会社は次第に損害賠償制度へと被害者への懲罰メニューを移行してゆくだろう。

 そして比較的速やかに、金銭賠償とそのための労働刑務所は原則となる。しかし、必ずしもすべての被害者がそれを望むわけではないことも明らかである。極端な例を挙げてみよう。私が裕福であり、一人息子を残虐に殺されたとする。おそらく私は犯罪者に対して金銭賠償は望まず、可能な限りの苦痛を与えたいと考えるだろう。

 これは刑罰の応報刑論に基づく発想である。前述したように近代の啓蒙主義は、犯罪者への苦痛の投与という刑罰を、非合理的・非人道的なものとして排除してきた。そのため、現代の先進国家では、犯罪者への刑罰としての拷問などは行われなくなった。

 しかし私には、この原則が無政府社会でも同じであるかどうかは判然としない。多くの被害者の心には、加害者に対して残虐な刑罰を与えたいという欲望が存在している。そうである以上は、それがいかに非人道的であると批判されても、実現可能なオプションであれば追求しようとする人間も存在するはずである。そうだとすれば、それを刑罰の選択の中に入れるような法体系を採用する裁定会社や警備会社が誕生して、いくばくかの顧客を得ると考えるのは自然だろう。

 もちろん、ここでは原則的な処遇形態について、話を進めている。とすれば、警備会社はそれなりの規模を有しているはずである。非人道的な刑罰をオプションとして提供する会社は、それを望む人を顧客として獲得するだろうが、反対に人道主義を標榜する個人や会社、その他の組織とは対立することになる。あるいは、その結果として、ある程度の組織規模のある裁定会社や警備会社は、苦痛を含む刑罰を選択肢とするような法を採用することはないかもしれない。

 これはつまり、苦痛を与えるという刑罰の禁止は、それをほとんどの人びとが道徳的に了解しているかどうかにかかっているということである。違法ではないが、実践されないという行為には、ち例えばイルカや、あるいはイヌやネコを料理に出すことがある。それらは違法ではないが人びとから嫌悪されるため、ほとんど実践されていないのである。

 このことを逆にすれば、中国では比較的死刑が頻繁に執行され、また中国文化圏にあるシンガポールでも苦痛を与える刑罰が残っていることからすれば、無政府社会内での、刑罰の地域差も予想される。また、現在の人道主義的に基づく刑罰とは反対に、無政府の社会ではもっとむき出しの残虐な拷問を含むような刑罰が、多くの人びとから支持されることも抽象的にはありうる。

 仮に無政府社会において、犯人に苦痛を与えるという選択肢がないのであれば、それに満足しない個人、つまり先の例の一人息子を奪われた裕福な私の選択肢としては、自分で復習をするか、あるいはゴルゴ13のような暗殺者を雇うしかないということになる。これは、現在の制度と変わらないともいえるだろう。

 さて刑罰の選択肢に戻ると、もっとも標準となる刑罰は、過失犯罪や財産犯罪の場合にはいうまでもなく、故意の傷害や殺人の場合でも、損害を賠償することになると考えられる。そして、損害賠償額は一切の物質的な損害に加え、精神損害に対する懲罰的な賠償をも加算したものになる。犯罪者にとって賠償のための賃金を得るためにもっとも能率がよいのは、やはり自分が行ってきた職業をそのままに継続することであろう。よって、GPSなどの逃亡防止装置が前提となれば、もっとも確実な損害の賠償のためには自由刑を科さないことになるだろう。

 しかし、犯罪の態様や相手の態度、相手と自分の経済事情その他の多くの状況に応じて、被害者は異なった処罰を求めるだろう。悪意に満ちた犯罪行為の実行者を、そのままに社会的に活動させるのは許せないという人もいるはずである。また裕福な犯罪者に対しては、かえって自由刑を与えたいと被害者は思うかもしれない。人の財産は不平等だが、人生に与えられた時間は平等に近い。被害者は受けた被害に対する刑罰として、犯罪者の人生にとっても同じような「割合」での不利益を求めるかもしれない。

 人びとが単純な損害賠償を望まない典型的な犯罪は、悪意に満ちた傷害や残虐な殺人だろう。この場合、被害者の財産上の損害が最重要問題ではないことが多いからである。損害賠償に並行する形で、犯罪者の自由を剥奪するために労働刑務所での留置や、あるいは被害者の選択によっては、賠償に完全に代わる形での死刑が課されることが合意されてゆくのではないだろうか[5][6]

 

刑務所の維持費用

 無政府社会においても、刑罰の執行にはいくらかの人的・物的な資源が必要となる。たとえば、死刑の執行や、比較的に単純な苦痛の投与、さらに犯罪者の蓄えてきた個人財産からの懲罰的な損害賠償の取立てなどは、警備会社にはとってはそれほど大きな物質的な負担とはならないだろう。しかし、単純な刑務所への隔離は当然のこととして、あるいは犯罪者を働かせ、その対価から犯罪の損害賠償をさせるためにも、それなりの施設が必要となる。これが果たして、現在の刑務所の維持費用よりも大きな負担にならないかが問題になる。

 リバタリアンには、刑事法を廃止して、民事法による損害賠償のみによる民刑一致を説く人びとが数多くいる。たとえば法哲学者ランディ・バーネットは、その著『自由の構造』の11章において、刑事事件の罰としては、労働刑務所で犯罪者が働くことによって賠償することのみにするべきだと主張している。彼は人権論の立場から、「正義を実現するためには矯正をなすだけで十分であり、罰というものの本質が人権制約である以上は、原状回復以上の罰は倫理的に望ましくない」という論理を展開する。バーネットはまた、犯罪者の労働によって十分な施設維持費用と、同時に被害者への賠償金が支払われるだろうと予期してもいる。そして、本当に働かせることができないような凶悪な犯罪者のみは、さらなる無法の刑務所へと送られるという。

 バーネットのいう、犯罪結果の完全回復コストの賠償のみが罰とされるべきであるという人権観念には、ある程度納得するものがある。これは、我われが刑罰のあり方として、拷問や残虐な死刑を人道主義的に禁止してきた啓蒙主義的な考え方の、完全な延長線上にある。犯罪による損害の発生に対して矯正できる部分は金銭的な損害のみであり、それは賠償によってのみ可能となる。犯罪者への自由刑は社会にとって資源を浪費する上に、犯罪者の人権の無意味な抑圧になっており、さらに被害者からは加害者への賠償請求の機会を奪っているとさえいえるだからである。

 即座に二つの疑問が思いつく。1つ目は、犯罪者を生産的であらしめることが可能な監獄制度、労務刑務所制度などは先進国に存在しえるのかという疑問である。アメリカにおける経済史の研究によれば、近代の奴隷労働が徐々に廃れていったのは、人権上の問題からというよりも、その監視コストの高さから割の合わないものであったからだといわれている。このような観点からすれば、労働刑務所の実現は難しいようにも思われる。

 日本の江戸時代には、江戸の石川島には無宿人(現代でいうホームレス)や犯罪者を使って、紙などを作ったりする人足寄場があった。そこでは油絞りがもっとも重労働とされていたという(これが苦痛を与えるという意味で、「油を絞る」という表現を使う原因となった)。また、佐渡島でも、金鉱採掘時に湧き出す水の汲みだしがたいへんな重労働であり、水替え寄場として罪人を働かせていた。中国でも、脱穀作業などが重労働として犯罪者に課されていたという。こういった単純であり、かつ物理的な重労働というのは確かに労働刑務所の活動としては格好のものだが、科学が発達し、労働がサービス産業中心となった現代に、物理力のみを必要とするような労働はほとんど存在しない。

 しかしこういった懐疑的な直感とは裏腹に、犯罪者の多くが生産的であり、十分な賃金労働をすることができるという事実は、すでに多くの社会実験から明らかになっている。たとえば、1976年から80年の間に、アメリカのメーン州の刑務所では、観光地に近い刑務所内で、受刑者に記念品をつくり、販売することを許した。また、受刑者たちは他の受刑者の労働者となったり、雇用者となったりすることも許された。この状態で、記念品の数や売り上げは3倍にもなり、その他にも刑務所内のテレビレンタルなどの産業がうまれたのである[7]

 アメリカには、受刑者の生産物を州際取引することができないという法律がある。それはつまり、受刑者の生産する商品がそれだけ競争力があるということを反映したものなのである。実際にアメリカでは、受刑者の作る商品を一般に売ってはならないとする政治的な陳情は常に行われてきた。もちろん、現在ではインターネット上で、刑務所での製品は一般販売されている。

 また明治時代の日本でも、囚人労働が否定された経緯には、石盤採取や傘製造、レンガ製造などについての民間業者の反対運動があったのである。それに伴って、1901年には「監獄工業調査に関する日本工業協会決議書」が提出されている。また監獄作業は、日露戦争の軍需品の生産に追われたという[8]。とすれば、現代でも刑務所を「教育センター」とするような職業教育は不可能ではないし、同時に被害者に賠償を行うことも可能だろう。

 日本でも、2007年に山口県に開設された新しい刑務所では、受刑者にRubyというプログラム言語を教えて、ウェブ上のソフトウェアを開発しようとしている。この会社は、日本最大の警備会社であるセコムの子会社のプリズニーズという会社が運営している。とはいえ、刑務所運営のすべてが民営化しているわけではなく、教育や巡回といった非権力的な業務が委託されるという混合方式が採用されている。

 またセコムは刑務所内の囚人に対して、GPSによる位置情報システムを内蔵した機器を装着させて、逃亡を防ぐシステムも同時に開発している。これは、子どもや徘徊老人などの位置情報取得のためのシステムを転用したものであるが、これを体内にまで埋め込んで取り除けないようにすれば、刑務所は必要なくなるだろう。

 さて、受刑者が生産的な存在でありうるという一般論は成立しても、犯罪者の中にはひじょうに粗暴で能力が低いために、労働不可能なものがいるだろうことも間違いない。その場合、彼らを収容するために現在のような刑務所を維持するとするなら、結局は各警備会社の警備料金は、刑務所を運営しない場合よりも高いものになってしまう。もちろん、そういった施設は各警備会社が運営することはなく、コストを削減するために、警備会社の委託を受けた専門の刑務所運営会社によって管理運営されるとしてもである。

 さて、我われのどれだけが、自分を傷つけた犯人を収容するための刑務所を運営するための、プレミアム料金を支払うのだろうか。十分に人権感覚にあふれた人は、あるいはそのような完全に非生産的な刑務所維持のプレミアムを支払うかもしれない。そして、長期的にはそのような人道的な解決が支配的な刑罰となる可能性もないとはいえない。しかし、多くの人は犯罪者に賠償を望むか、あるいは一時的な苦痛を与えるか、あるいは人体実験や死刑などの刑罰を与えることを望むだろう。そのようなオプションしか用意しない会社は、より低い警備料金で、より質の高い保護サービスを提供できるからである。

 長い時間の後には、刑務所の維持に資源を費やす警備会社は人道主義的な顧客を獲得し、刑務所を持たない会社は厳罰主義者や損害賠償主義者を惹きつけるかもしれない。それによって、警備会社間の勢力均衡が成り立つ可能性は十分に高いだろう。

 

刑務所を廃止して、監視労働を要求する

 これまでのリバタリアンの議論にはあまりなかったものだとはいえ、現在進行形の科学技術の急速な発展に鑑みて、私が現実的だと考える刑罰の執行方法がある。それは前述したように、犯罪者にGPS発信機、あるいは同時に無線タグを埋め込み、それによって逃亡を現実的に不可能にすることである。そして、通常の生活を継続しながらで一般社会で働いてもらい、その稼得金から被害者への損害賠償をさせるのである。

 これは明らかに刑務所に閉じ込めておくよりも人権上も制約が少なく、かつ損害賠償の速やかな支払いをも現実的な射程にいれる方法である。少なくとも、野心的ないくつかの警備会社にとっては、契約者への選択肢とされるだろう。

  おそらく多くの詐欺犯などは、このような制約のもとでは、その後の順法的な生活によって賠償が可能だと思われる。このような場合には、犯人はそれまでと同じように生活し、順法的な活動によって得た収入から賠償金を払うことになる。

 これはしかし、弱い意味では、古代ギリシアやローマに存在した、債務奴隷に近い状態だといえるかもしれない。古代の地中海では、金銭を返済できなかった市民は、契約によって奴隷となって働くという制度が広く確立していた。とはいえ、もちろん、GPSによる監視というのは位置情報を得るだけなので、はるかに間接的なものであり、人権主義にも合致するだろう。

 これに対して、強盗殺人犯人などの粗暴犯の場合には、犯人の性格の粗暴さのために、賠償金を集められる可能性ははるかに低い。この場合、人道主義の見地からは、なんらかの作業をともなう刑務所での拘置が可能なのかもしれない。しかし被害者側の立場に立てば、死刑によって犯人の臓器を移植するか、あるいは人類の医学に不可欠な人体実験の被験体とすることが考えられよう。近い将来に、個人の臓器のみを発生されることが可能になった場合には、究極的な粗暴犯の場合、人体実験しか犯罪の賠償は成り立ち得ないように思われる。

 現在の刑務所は国家が運営しており、さらに犯罪者には損害賠償の必要が事実上ないため、犯罪者が実社会で収入を得るために何事かを学ぶインセンティヴはほとんど存在しない。それに比べると、刑罰が損害賠償を原則とし、労働刑務所において技術を学んで支払うとするなら、労働刑務所の運営会社は犯罪者を生産的な労働者にしようとするための、そして犯罪者には社会的に有用な技能を学習するためのインセンティヴが発生する。このようなメカニズムを通じて、無政府の労働刑務所は犯罪者の社会復帰を助ければ、はるかに個別予防にも役立つだろう[9]

 なお、完全な賠償のみを刑罰とすることに対する疑問は、人権擁護という抑圧のない無政府社会で、被害者が加害者に対する罰金のみの懲罰に満足するのかという点である。前述したように、傷害や殺人の場合に、賠償ではなく苦痛を与えるような復習をしたいという被害者は、どんな社会でも一定数はいるだろう。現在のところは、そういった人々は国家の一元的な刑法システムによって、そのような刑罰が禁止されているために我慢させられている。

 無政府社会では、犯罪者と被害者の最終的な妥協点として、なんらかの裁定会社、警備会社が、罰金ではなく、死刑や苦痛刑などの刑罰を、被害者に選択肢として用意するだろう。あるいは、それぞれの刑罰の選択にプレミアム料金やディスカウント料金を課することもあるかもしれない。どういったサービスが、警備会社によって提供されるのかを予測することは、そのオプションの複雑さからいって難しい。それらは、我われの犯罪に対する正義の感覚、刑務所の運営費用、刑務所内での賃金労働の可能性、臓器売買などへの倫理観、などの多様なファクターに依存しているからである。そしてまた、現在の人びとの刑罰に対する個人的な選好は、国家による自由刑を主とする一元的な法システムの強制によって、現在のところまったく顕在化されていないからである[10]

 生命体としての人間のもつ経済価値の変化は、予測が難しい。たとえば、臓器移植の金銭的な価値は、本人と同一の遺伝情報を持つ臓器の発生的な複製が可能になれば、完全に消滅してしまう。あるいは反対に、新たなる被験者を必要とする重要な薬剤や治療法、手術法などが考案されれば、人間の値段は今以上に上昇してゆくかもしれない。

 

法の多元性による非効率性

 以上、これまでにいくつか考えてみた法の多元性への進化だが、これはたしかに起こってゆくだろうが、現実にはその速度はゆっくりとしたものだろう。なぜなら、一つの法から二つの法が並存する状態への移行は、司法手続きを複雑化してしまい、制度全体の効率を悪くしてしまうからである。

 特にそれは、刑罰を定める実体法の分野においてよりも、手続を定める訴訟手続法において、著しい。たとえば、死刑制度の存廃についての意見の対立が、多元的な法制度においてなされるようになったとしよう。この場合、それは裁判の提起以降、特に判決から刑の執行という段階においての相違である。このように、事件の発生、捜査から長い時間を経た後に、多元的な法制度の相違を個人に対して適用するのは、被疑者やその警備・弁護会社の確定の後のことであり、大きな手続き的な混乱は起きないはずである。

 これに対して、たとえば、不法逮捕中に得られた自白や、事実上の拷問によって得られた自白などの違法収集証拠を完全に排除するという法体系と、それが真実である場合には許容するという法体系とが、並存している場合について考えよう。

 その場合、捜査担当者は被疑者がどちらの法を採用する警備会社と契約しているか、そしてその警備会社と捜査担当者の会社との取り決めはどうなっているのかを、捜査に際して知っている必要がある。そうでなければ、違法とは思わなかったが、結果として違法となるような捜査行為が起こるかもしれないからである。

 しかし、考えれば明らかなように、現在の警察が行っている初動捜査では、相手の素性がはっきりしていないことがほとんどである。典型的には、職務質問や、令状を得ていない緊急逮捕や現行犯逮捕においては、被疑者の素性は明らかではないままに行為を行っているのであり、まず相手の属する法体系を確認してから活動するというのでは、捜査活動は明らかに非効率的になってしまう。

 とすれば、社会内によほど大きな価値観、正義感の対立がない限り、犯罪捜査の手続の一元的な処理は、犯罪者以外の誰にとっても効率的であり、その効率性自体が、迅速性などの固有の価値をもっているのである。

 多元的な法制度が警備会社間で納得されて、実践されてゆく際には、犯罪や刑の種類を定めた実体法上の変化は比較的速く、頻繁に起こるだろうが、その反対に捜査から判決にいたるまでの手続き的法上の変化が合意されることは稀にしか起こらず、かつ非常に長い時間がかかるだろう。度量衡から紙やボルトのサイズにいたるまで、規格されているということに伴う効率性は大変大きなものがある。おそらく、効率の面から考えれば、よほどの思想的な対立がなければ、多元的な手続法制度は並存しないだろう。

 なお、今の実例は刑事法に関するものだが、民事法に関しても、同じ原理が当てはまる。しかし一般的にいって、民事法上の価値観の対立は刑事法上のものよりもはるかに小さいため、大きな変化は実体法上でもあまり起きないと考えるのが自然だろう。

 



[1]  有名な「高田事件」(刑集26巻10号631ページ)において最高裁は、集団暴行事件について約15年の間、被告人の責任ではない裁判の中断があったことを指摘して「憲法37条1項の迅速な裁判の保障条項に明らかに違反した異常な事態に立ち至っていた」ため、免訴判決が妥当であるとした。

[2]以下の、法の多元性と進化の議論はフリードマンの『自由のためのメカニズム』pp.145-147の論理を基本として具体化したものである。またこの論点については彼自身(Friedman 1996)によって、理論的にさらに展開されている。

[3]『自由の倫理学』序文p.3

[4]  この「ゆすられた」という感覚が、果たして「強制」とは異なったものだといえるのかは重要な問題である。この「ゆすり」が「不法」の感覚と同じものであるのかについては、法の経済分析に基づいて付論で考察しよう。

[5]  多数の異なった法制度を採るような多人数の加害者や被害者がいる場合には、処遇のプロセスははるかに複雑になる。そのような場合の刑罰決定の考察は興味深い論点である。おそらくは、ここでもまた関係者間での個別的なオークションが利用されると考えるべきだろう。

[6] あるいは、刑罰として民事的な損害賠償制度を利用する場合、その証明度は50%超という「証拠の優越」が採用され、自由刑・死刑などでは90%超の「合理的な疑いを超えた証明」が要求されるかもしれない。なぜなら、前者は単なる資源の移転であって社会的な損失を伴わないが、後者は、刑罰が純粋な社会的な損失を伴うからである。

[7]  Benson, The Enterprise of Law, p.337

[8]  重松一義 『世界の監獄史』 p.182

[9]  Sneed, 1977も同様の意見であり、犯罪者はその後は優秀な労働者として雇用され続けるだろうという。

[10] 日本の官僚的刑務所システムが、いかに被害者への賠償を無視した犯罪者人権主義的であるのかについては、中嶋博行『罪と罰 だが償いはどこに?』が参考になる。