6、警備会社と契約しない個人

 無政府社会における、警備会社との契約はいかなる意味においても任意である。とすれば、「お金がない」、あるいは「自分の財産を警備よりも別の用途に使いたい」といった消極的な理由付けによって、あるいは「自分は誰にも頼らずに一人で生きてゆきたい」という積極的な理由付けなどによって、警備契約をもたない個人もいる。多様な生を肯定するような社会には、そういった個人がかならずいるはずである。

 たとえば実際に、私はこれまでの人生で、損害賠償請求をする必要があるような重大な犯罪にも不法行為にもあったことはない。このまま大過なく死にいたる可能性も高いだろう。また、私は生命保険にも入っていない。私のような単にラッキーな人間に限らず、警備会社との契約が有償である以上、警備会社とは契約をしないというリスクテイカーは意外と多いのではないだろうか。

 現に、医療保険制度への加入が任意であるアメリカでは、2007年においても、人口の約16%が保険に加入していない。とするなら、おそらく警備会社との契約に関しても、数%程度の人びとは、リスクを自分でとろうとするだろう。

 さて、このような個人の刑事システムでの取り扱いはどうなるのだろうか。第一に、警備会社と契約のない個人が犯罪にあった場合、次に警備会社と契約のない個人が犯罪者となった場合、最後にどちらもが警備契約をもたない場合について考えみよう。ついで、一般的警備契約から外れるような、いくつかの特殊な犯罪状況について考えてみることにする。

 第一のケースである。私が殺害されたとしよう。私が家族を養っていた場合、家族は犯罪者に対して賠償請求をしたいだろう。あるいは私の所得に頼っていなくとも、私の両親は犯罪者を懲罰したいだろう。だが、犯罪者の捜索、逮捕、賠償の強制などを自分たちが追求するのは現実的には不可能である。よって、まず、犯罪発生後に、どこかの警備会社と契約して、その会社に犯人を捕まえて、犯人に賠償を強制する、という選択肢があるはずである。この場合、事件の発生後の警備保障契約に対しては、犯罪が発生する前に比べたプレミアムを支払う必要があるかもしれない。

 これと並んで、犯罪によって発生した損害賠償請求権を、特定の警備会社に売り払い、即座にディスカウントされた賠償額を受け取り、その後の紛争処理は警備会社に任せるという選択肢も存在するだろう。残された私の家族には生活費が必要であり、私の殺害という被害から発生する賠償を即座に受けられるのであれば、それは生命保険に似たシステムとして機能することになる。それは経済的に非常に有用だからである。

 

不法行為による損害賠償請求権の譲渡

 日本の民法には第709条に不法行為責任についての規定があるが、この条文は犯罪などによって生じた存在の賠償にも適用される。「故意または過失によって他人の権利または法律上保護される利益を侵害したものは、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」のである。

 ところで、この法律上の損害賠償請求権を、請求額が確定される前に他人に譲渡することは可能なのだろうか。純粋に財産的な損害についてはこれを認める学説が多いようだが、精神的な損害を賠償する慰謝料については否定的な意見が多い。日本の民法には特段の規定はないが、判例は慰謝料が確定した後の譲渡を認めているのみである[1]。これは私の知る限り、先進諸国でも同様で、一般に譲渡禁止の取り扱いを受けているようである。

 その理由は、実質的には被害者の債権行使の保障にあると思われる。たとえば、暴力団の組員による犯罪被害者は弱い立場にあり、債権譲渡などができないほうが、そのような脅迫を受ける可能性が存在しないために、保護されているようにも考えられるというのである。しかし、これは犯罪被害者の現実をほんとうに反映したものなのだろうか。警備会社が多数存在し、それらが弁護活動も兼ねているような場合には、むしろ債権の譲渡を認めたほうが、犯罪の賠償事件の迅速な解決につながり、結果的に被害者の救済にもなる可能性が高いのではないだろうか。

 付言しておくなら、ある種の法律家たちは、あるいは慰謝料の請求権がそもそも「一身専属的な」ものであるため、請求額が確定して通常の金銭債務となる前には譲渡できないと考えるべきだ、というかもしれない。だが、これは内容のない空虚な概念論争である。

 フリードマンが繰り返し指摘しているように、このような制度は中世のアイスランドでは許された行為であった。そこでは「訴訟を遂行し、判決を強制するための十分な資産を持たない人物は、その訴訟に勝訴し、罰金を手に入れることによって利益と評判を得ることのできる、そして実際に行うような人物にその(賠償請求権)を売ることができたのである。これはつまり、もっとも貧しい被害者への攻撃でさえも究極的には罰せられることを意味したのである[2]。」同じように、イングランドによる征服以前の中世のアイルランドでもまた、犯罪は不法行為として損害賠償によって解決されていた。

 現代社会で、不法行為が賠償によって解決され、またその不法行為債権の譲渡が許される場合、そうでない社会よりもより望ましい社会となるのかどうかは、それを実行してみる社会と、実行しない社会の比較をしなければわからない。しかし、そもそも原理的に法的矛盾が生じるというような問題ではないし、近代の絶対王政以前の社会が機能していたという事実からすれば、むしろ犯罪は不法行為として損害賠償による解決を原則とするべきだろう。

 

犯罪者が契約した警備会社をもたない場合

 警備会社を持たない個人が犯罪者になった場合には、被害者の警備会社によって一方的に拘束されることになる。おそらく、その警備会社の採用する内規に従って拘束された後、弁護会社を選択することが許されるだろう。

 その後、被害者側の警備会社と犯罪者の弁護会社の協議によって合意された裁判会社の裁判にかけられて判決を受けることになる。その結果が有罪であれば、警備会社の用意する選択肢のメニューから被害者が望むような形で、犯罪者は労働による損害賠償、死刑、拷問、その他の方法で刑を受ける。

 この場合、全体としての刑事手続きは現行の警察によるものと同じである。無政府の社会だからといって、人権が現在よりも必然的に抑圧されるわけでも促進されるわけでもない。現在の日本の警察がどの程度で人権抑圧的なのか、あるいは人権擁護的であるのかの判断は読者に任せたいが、当然ながら、人権の擁護と犯罪の立証や解明にはトレードオフがあるはずである。よって、どの点が、犯罪究明活動と犯罪者の人権擁護の妥当な妥協点なのかについても、個人によって見解が異なることになる。

 現在は政治的な決定過程を経て、法律化されているこの手続き自体もまた、無政府の社会では我われの個人的な選択の対象となる。刑事的な適正手続きもまた、警備会社の実践と、ジャーナリズムによる監視などによって、妥当だと思われる活動のあり方を、一つ一つの警備会社がそれぞれに決めて、市場においてわれわれの満足と支持を勝ち取るべく努力することになるのである。

 

アパラチアの争い

 前述したように、原則的に警備契約は有料であるから、人口のある程度が警備会社との契約をせず、自力で犯罪に対抗しようとすることも考えられる。これは、現代では多数にはなりえないが、あるいは極度に貧困である、あるいは別の目的に所得のすべてを使いたいという人びとは存在する。

 アメリカでは、警察組織の存在しない無法状態における部族間闘争として、きわめて有名な事例がある。19世紀末に起こった、「ハットフィールド=マッコイの争い」である。これは、ウェスト・バージニアとケンタッキーの州境で起こった、ハットフィールド家とマッコイ家の間の私闘である。そもそも両家は南北戦争でもゲリラ活動をしていたらしく、当初は一匹の豚の取り合いから始まったいざこざは、やがてハットフィールド家の息子とマッコイ家の娘の駆け落ちの発覚から、大きな流血事件へと発展していった。

 アパラチア山脈の片田舎で、両家は12人を超えて殺し合い、両州知事が治安の回復を実現するために、さらに8人が絞首刑にされて、決着をみた。アメリカ人の常識の中に、この事件は警察の機能しない無法状態で起こりえる、最悪の事態として記憶されている。

 このような事件は、たしかに我われの犯罪に対する復讐の欲望から生まれてくるだろう。そしてこのような事態は誰にも非常に高い代償を支払わせる。このことこそが、我われが警察活動を第三者、とくに国家に任せていった理由の一つなのだろう。

 無政府社会では、このようなことは起きるのだろうか?

 現代社会では高度な経済的分業がなされており、部族間戦争で見られるような血族が同じような地域に住み、同じような原始的な生活をしているということはほとんどない。典型的な現代人は、核家族であり、親族といえども学業や職業上の理由によって同じ場所に住んでいることは稀にしかないのである。

 さらに部族間の争いは、その双方が警備会社という第三者と契約をしていないという特殊な状況でしかおきないはずである。なぜなら、相手集団への憎しみは親族が集まっていることによって増幅されるものであり、警備会社の警備員は、常識的な個人にとって明らかに直接的な憎しみの対象にはなりえないからである。

 現代人にとってハットフィールド=マッコイの争いが起こりそうもないという感覚は、現代のアメリカ人がこの事件をある意味で、行き過ぎた復讐感覚のカリカチュアであるとしていることからも理解できる。テレビ番組では、対決するチームをそれぞれハットフィールドとマッコイと名づけてみたり、また、争いが終わってからちょうど100年後の1991年には、両家の子孫を現地で引き合わせて、休戦協定を結ばせるテレビ番組を組んだりしているのである。

 私は、人間の復讐の感覚というのは非常に強いのではないかと思うが、それはめったな事では、一族を巻き込んだ殺し合いになるほどのものではないというのが、客観的な事実のようである。刑務所での自由刑に比べて、犯罪の損害賠償をするというのでは納得できないという考えもあるかもしれない。だがこの点に関しての人びとの考えは、時代や場所によって一定ではない。見方を変えれば、刑務所でダラダラと時間を過ごすよりも、必死に働いて賠償をしてくれたほうが復讐の感覚も満足できる可能性は高いだろう。

 進化論的に殺人行動を論じたデイリーとウィルソンによると、報復者にとっても復讐は高くつくことが多い。よって、彼らは国家による被害者からの刑罰権の剥奪について、以下のように述べる。

 

 「国家がなぜ、被害者-復讐者間の役割を取り上げることができたのかの第一の理由は、この理由が、しばしば権利であるよりは重荷であったからである。人々は、復讐の義務から逃れてほっとしたのであるが、それは、彼らにかわって国家が敵を罰してくれて、それ以上の悪い行いが広まることはないと信頼できるからであった。アングロ・サクソンの王たちと同様、現代の脱個人化した正義の信奉者は、一般市民に、社会契約を提供しているのである。個人的な自律性を放棄するかわりに、国家が保護を提供するというものである。」

 

つまり、個人的な復讐に代えての国家的な犯罪処罰を、やや発達した社会の必然的な結果であると考えるのである[3]。この考えに従えば、たしかに個人や親族が直接に復讐をするのは精神的な重荷になるだろうが、警備会社によって制度化された刑罰や賠償もまた国家による刑罰と同じように制度化されており、その結果においては国家が行うよりも望ましいものだろう。

 

親がその子どもを殺した場合

 ここまで民刑一致法として、刑事事件が国家によって刑罰が課されて解決されるのではなく、個人によって課される民事損害賠償によって解決されるような制度を提案、あるいは想像してきた。しかし、考えてみると、このような解決法では、やや都合な結末となるような状況が思いつく。

 まず、第一のケースは、親権者かつ事実上の保護者である親がその子どもを殺したような場合である。この場合は犯罪の被害者である子どもがすでに死亡しているため、その財産的な損害についても精神的な損害についても、親が賠償するべき被害者は存在しない。とするなら、親は無罪となるのだろうか?

 これは難問である。現代社会の大多数が、子殺しもまた、胎児以降の段階では殺人の罪に値すると考えているだろう。だが、罪の償いを賠償する必要がないのであれば、あるいは例外的に刑務所での自由刑を課するべきなのだろうか。だが、その場合、誰がその費用を負担するのだろうか。

 私見では、このような場合、我われは、殺人の罪を加害者が犯したことを人びとに知らせると同時に、監獄で働かせながら拘禁を続けるという方法もあるだろう。現在のように、加害者を単に刑務所に閉じ込めること自体はなにも生み出さないため、その生活費を自分で稼いでもらうのである。この場合、近隣の人々に知らせるなり、社会福祉団体に知らせるなり、あるいは加害者の別の子どもに危険が及ばないかを確かめるなりといった、将来の同様な事件の予防は大きな意味を持つ。

 この問題はまた、虐待するためにイヌやネコを飼うという、よく見られる病理的な行動にも当てはまる。例えば、哲学者ピーター・シンガーは「高等類人猿プロジェクト」を推進して、ゴリラやチンパンジーなどの霊長類にも擬似的な人権を与えようと提唱している。しかし、イヌやネコを虐待して殺すことを犯罪として、行為者を自由刑に処することは現時点では極端な意見でしかないように思われる。しかし長期的には、我われの大多数が十分に人道的な動機を持つようになる場合には、ゴリラやクジラだけでなく、イヌやネコもまた虐待や殺害が軽微な犯罪として扱われる可能性もあるかもしれない。

 同じように、虐待するために子どもを持つ親がいるのなら、そのような虐待行為から子どもを救うべきことは、道徳的には明らかである。おそらく、その任務は、子ども達のように自身の警備契約を持たない人たちを保護するための慈善的な警備会社に任されるとなるのではないだろうか。また、自分の契約する警備会社がそれらの虐待行為を発見した場合に、その保護という余計な支出をすることを非難する人はいないだろう。

 さらに進んで、多様な人道主義的な社会運動の結果、すべての、あるいはほとんどの警備会社がその保護する契約者の子どもを、契約者である親による虐待から守るようになるかもしれない。それは、NPOなどの運動を通じて、活動的な人びとが子どもの虐待を阻止しないような警備会社とは契約しないようになるかもしれないからである。

 たとえば、私はトヨタの車に乗っているが、トヨタは法律で定められた以上に多くの安全装置を「自主的に」その製造するクルマにつけている。これはそのような行為自体が、安全を重視しているという宣伝効果を持つからでもあり、またクルマの安全に関するNPOからの好意的な格付けをもらいたいからでもあるだろう。これはまた、環境基準のISO14001などにも当てはまる。

 未来の警備会社は、現在のすべての企業活動以上に多方面からの政治的な圧力を受けるだろう。そして、そのことが企業活動の安定的な均衡戦略として、どのようなものになるのかを予測するのは難しいが、少なくとも子殺しのような活動の禁圧は含まれるだろう。

 

孤独な個人に対する犯罪

 この問題についても、議論はやや繰り返しになってしまう。ホームレスに代表されるような人びとは、現在でも犯罪の被害に遭いやすいことは間違いない。いうまでのなく、彼らには現実的に庇護してくれる人びとが少ない、あるいはいないことを、潜在的な犯罪者は知っているからである。では、無政府社会では、天涯孤独な個人が殺されたような場合には、その罰は誰が強制することによってなされるのだろうか?そして、どのような形でか?もちろん、ホームレスの人びとは、警備契約をしていないから、無防備であることは前提である。

 このような人びとへの犯罪を防ぐために、子どもの虐待防止の場合と同じように、私的なヴォランティア警備団体がホームレスの代理機関となるような制度が発達するだろう。倫理的にいって、誰にとってもホームレスへの殺人や傷害は罰せられるべきであるため、そのようなヴォランティア団体が形成されることは自然だからである。

 あるいは、そういった自発的な警備会社には、地域の名士・名望家のつくる基金や一般人からの寄付がありえる。さらには、殺人者を拘束した警備会社自体が、ホームレスが殺害された場合、犯人からの損害賠償を実力で収用することによって、同じような事件の再発を抑制するように活動する警備会社も現れるかもしれない。もちろん、このことが犯人の警備会社からも肯定される処遇として認められるという前提においてだが、そうなることは人道主義的にも納得できるように思う。

 我われの他人への無関心は、そもそも中央集権的な警察が、あるいは国家が犯罪を取り締まり、処罰するという状態を前提としている。そうでなくなれば、多様な人道主義からの警察活動、自警活動が市民の間で自発的に発生するだろう。このように期待することは、現在の地域の自警活動の高まりから考えても、あながち荒唐無稽ではない。

 



[1]  最判昭和58.10.6.民集37巻8号1041頁 名誉毀損による慰謝料請求権の破産財団への移転を認めたもの。

[2]  David Friedman, “Private Creation and Enforcement of Law: A Historical Case”, Journal of Legal Studies 8, p.414, 1979

[3]  『人が人を殺すとき』pp.394-395