5、警備保障会社による治安の維持

 

 無政府社会では、個人の一人一人が完全な主権を持つ存在である。よって、原理的に考えれば、犯罪が起こった場合に、自分と自分の家族、親族によって事態の解決を図ろうとすることも可能である。これはまさに、原始社会における法制度だといっていえよう。

 しかし、現代社会では、通常、個人は専業の職業を持っており、それによって生産活動は高度に分化して維持されている。警察活動を一般人が行うのは明らかに非効率的であり、結局は犯罪を抑止できない可能性が高まることになる。よって、警察活動やそれに続く裁判活動もまた、それに特化した会社組織が現れると考えるのが自然であり、また社会の生産性もそういった犯罪抑制組織の存在によってのみ、現在以上の規模を維持できるのである。

 

警備保障会社

 前述したように、暴力を伴う粗暴犯罪行為、あるいは情報の操作を伴う詐欺行為は、いつの時代にも存在するはずである。ヒトの進化的な歴史の中で、そのような犯罪によって資源を獲得したものは、明らかに自己の繁殖にとって有利であっただろう。このような考えは、犯罪行為を引き起こす蓋然性を高めるような遺伝子が、ヒトの遺伝子プールに残っているだろうということを示唆している。

 もちろん、そのように考える必要は必ずしもない。ガチガチの経済学の伝統にそって考えるならば、暴力や詐欺が有益な状況においては、誰しも「合理的」にそういった行為に走ると考えることもできるからである。この場合、論理的には、遺伝的な行動傾向は何の役割も果たしていないと考えることになる。このような犯罪の性向というものがあるにせよないにせよ、今あるような犯罪行為がなくなると考えるのが非現実的であることだけは間違いない。

 無政府社会において、現在の国家の警察機構の役割を果たすのは、民間の警備保障会社である。このような民間による治安の保障機関は、これまでのリバタリアニズムの文脈では、「保護協会」といった表現で表されてきたことが多い。これはノージックが論じた最少国家が、保護協会(protective association)から自然発生するという議論の影響を受けているのだろう。しかし、本書では活動や組織の実態に近いと考えられる、警備保障会社、あるいはより短く警備会社と呼ぶことにする。現在では、英語でもPDA(Private Defense Agent)が使われることが多い。

 ここでは警備会社というが、それは必ずしも会社法でいう「営利」を目的とする「会社」組織である必要はない。ノージックが論じたような組合に近いものかもしれないし、純粋な株式会社であるかもしれない。どのような組織がもっとも人びとの共感を得て支配的な形態となるのかは、まさに人びとの主観的な価値観に基づいた自発的な契約に依存するのである。

 さて日本よりも犯罪の多発するアメリカには多くの警備会社が存在し、一般家庭でも警備保障契約をする、あるいは購入することはまったく珍しいことではない。現在の日本でも、すでにセコム(SECOM)や綜合警備保障(ALSOK)などといった民間警備保障会社がある。これらが契約者の特定の個人の住宅、およびそこにある個人財産や個人を守っているのである。

 一般的にいって、警備会社のほうが警察よりも犯罪対策に関して信頼できると考えられる二つの理由がある。第一は、当然ながらインセンティヴの問題である。犯罪被害を食い止められないような警備会社は、その低いパフォーマンスによって顧客を失う危険性が高くなる。そして警備会社の従業員は、そのキャリアにおいて効果的な警備方法を考案することによって会社を繁栄させ、それによって出世する必要がある。これに対して、役人としての警察官はあらゆる行為が法律的に決定されている上に、何か問題が起きなければ自動的に昇進することを約束されている。

 もう一つの重要な点は、民刑一致法を説くアメリカの法哲学者ランディ・バーネットが、明快に述べている。そもそも無政府社会には、現在のように実際には管理者のいない公道や公園などは原則として存在しない。そのために道路を管理する会社や公園を運営する会社は、かならず彼らの私有財産上における犯罪を防止するために、予防措置を中心とする警備会社に警備を任せているはずだということである[1]

 公道を通らずに窃盗犯が我われの住宅に近づくことは難しいだろうし、管理の行き届いた公園でこどもを誘拐することもまた現在よりも難しくなるだろう。これこそが、アメリカの裕福な人びとが、ますます外部からの自由な立ち入りを禁止するゲーティッド・コミュニティに住むようになってきた必然性である。また現代社会の特徴ともいえるような大規模なショッピングモールやディズニーランドなどの行楽施設は、すべて厳重に管理されており、だからこそ我われはそういった場所を好むのだ。

 あやしげな服装をした個人が住宅に入り込もうとする前に、住宅に通じる道から追い出すことができるなら、住居侵入や窃盗、強盗、誘拐などは激減することはまちがいない。事前の犯罪予防に時間をさくことができるのは、公共的な空間の私的な所有と、私的な警備会社による犯罪対策のもつ大きな利点である。現在のような人権重視の警察組織と広大な公共施設との組み合わせは、犯罪の予防には不向きであり、どうしても犯罪が起こってからの犯人の捜査や確保、処罰といった行為が警察活動の中心とならざるを得ない。

 これらの理由から、国家警察のない、無政府と私有財産制度を基調とする社会には、はるかに少ない量の犯罪しか起きないだろうという楽観的な見通しは十分な根拠を持つ。なお、このような制度のはらむ自由主義的な問題点については、8章において詳述しよう。

 さて、いうまでもなく現状の警備会社は、国家警察とは異なり、「逮捕」という強力な権限をもっていない。よって、その活動内容は、おのずと住居侵入をともなうような強盗、窃盗などの犯罪への対応というような、契約者の支配領域内に限定された物理力の直接的な行使にとどまることになる。

 無政府社会における警備会社は、現在の警察と同じ機能を果たす。とすれば、現在のように物理力の行使が、法的に禁止されて不可能であるような状態と同じではありえない。適切な場合には、警察と同じように犯罪の容疑者を拘束する必要がある。

 つまり、彼らにも、関係する裁定機関、つまり裁判会社の許可を得れば、一般市民の人身を拘束することを許すことになるのである。各警備保障会社では、今以上にその従業員の物理的な能力を高めるべく格闘技などにいそしむだろうし、また射撃の訓練もするだろう。つまるところ、いかなる秩序であれ、究極的には物理力、あるいは実力をもつ人びとによる平和状態の裏づけが不可欠だからである。

 とはいえ、警備会社が実際の戦闘状態に突入することは、現実的にはまったくないだろう。物理的な戦闘は、必然的にその両者に破壊的な物理的損害を与える。戦闘をすることは、警備会社に働く警備員の身体や生命が損なわれた場合に、保障の必要が生じることを意味している。

 このような理由から、最終的には好戦的な警備会社は人道主義に反するだけでなく、警備員の確保に、他社より高い賃金を支払うことを必要とする。高い賃金は高い警備料金を意味し、顧客にとっての魅力を減らすことになるため、民間警備会社同士の戦闘は可能な限り回避されるのである。

 

人身の自由と令状主義

 現在の先進国の警察システムでは、犯罪が起こると、警察が容疑者その他の個人を逮捕することが普通である。しかし、彼もまた法的な人権としての人身の自由を有しており、その人身の自由を奪うためには、裁判所からの令状、つまり逮捕令状が必要となる。これに対して、警備会社も裁定会社も複数存在するような多層的な構造において、ある警備会社はどのように犯罪の被疑者を拘束できるのだろうか?

 以下に無政府社会での、刑事事件の一例について想像してみよう。

 

 私が夜中に帰宅する途中で、何者かにナイフで切りつけられ、カバンとその中にあった財布を奪われた。私はすぐに携帯電話から自分の契約する警備会社であるジャパン・ポリス社に被害届けを出す。ジャパン・ポリスはその前身が日本国の警察機構であるため、人びとからの信用も厚い。警備料の値段は高いが、どのような犯罪に対しても比較的オールラウンドな強みを持つ業界のリーダーである。

 ジャパン・ポリスは翌日に容疑者としてAに目星をつけ、Aの身柄を拘束するためにA宅に向かった。ところが、A宅についてみるとAの警備会社であるピーブルズ・ポリス社の警備員がAの身柄の拘束を防ぐべく、家を守っている。;自分がジャパン・ポリスから疑われていると気づいたAは、自分の警備会社に保護の要請をしていたのだ。ピープルズ・ポリスは比較的安価な警備料ではあるが、人権を徹底的に擁護することで人びとに知られている会社である。

 ジャパン・ポリスの警備員たちは、かくしてA宅の前でピープルズ・ポリスの警備隊と真正面から向かい合うことになる。ここで戦闘が起こるのだろうか。おもむろにジャパン・ポリスの警備員のリーダーは電話を取り出し、本部に連絡する。本部の職員(かつての警視)は、ピープルズ・ポリスとジャパン・ポリスの相互に同意した仲裁会社がジャスティス・アービトラージュ社であることを確かめる。

 ジャパン・ポリスが、ピープルズ・ポリスの契約者である容疑者を逮捕するためには、両者の事前に合意した裁判会社、あるいは仲裁会社であるジャスティス・アービトラージュ社からの令状が必要なのだ。つまり、ジャスティスから逮捕令状が出なければ、Aの身柄は拘束できない。Aの疑わしさを示すために、私の記憶に基づいて造られたモンタージュ写真や、街頭設置カメラに写った犯人らしい画像、Aの写真や背格好のデータなどがジャパン・ポリスからジャスティスに送られ、しばらくの時間がたつ。

 この間、ジャスティスの職員(かつての裁判官)は、犯人がAである蓋然性についてと、Aの逃亡の可能性について判断した。蓋然性は高い。そこでジャスティスはジャパン・ポリスとピープルズ・ポリスの両者にあてて暗号化された署名付きメールで逮捕令状を送る。これを受けて、前線では両者によってAの身柄の引渡しが行われる。

 

 現代国家では、警察機構は現実的な意味で一元化されている。警察が私のことを被疑者であると考えた場合、刑事訴訟法上の規則は、令状主義によってたしかに私を漠然と抽象的に守っていることになっている。しかし、現実に物理力を持って守ってくれる集団はいない。これに対して、無政府社会では、上述のAは通常の個人ではあるが、自分を不当な監禁や暴力から守ってくれる警備会社であるピープルズ・ポリス社と警備契約を交わしている。

 私の警備会社は、Aの警備会社に状況を説明すると同時に、あらかじめこの二者間で合意しているユニバーサル・ジャスティス裁定会社に対して「逮捕令状」を求める。裁定会社における判断が、私には高いレヴェルの嫌疑がかかっており、逃亡する可能性、あるいは証拠隠滅の可能性が高いというものであれば、逮捕令状が下りて、人身拘束が許可されるだろう。

 これは、現在の国家による刑事訴訟法の規定と同じである。(日本の現実では、警察が要求すれば、逃亡や証拠隠滅のおそれがなくても、令状は交付されているのが実態である。)その結果、私は知人の警備会社に物理的な強制力をもって拘束されることになるだろう。

 その後、私の警備会社はAを起訴し、有罪を確定できれば、あるいは死刑や自由刑、財産刑、あるいは労役刑などを課すことになる。自然なことだが、私の警備会社との契約では、会社は同時に私の弁護人になる。つまり、私の警備契約は、私が拘束された場合には弁護人集団となって、私に有利な証拠を探し出して提出してくれるという内容を含むだろう。

 上には裁判所の許可、あるいは令状をもって、一時的な正当性を示す例を考えたが、もちろん現実には現行犯逮捕がなされる場合も多いはずである。その場合には、現行制度が認めているように、何人も現行犯逮捕を行うことができ、事後的な令状をもって、その逮捕行為の正当性を確認することになるだろう。

 無政府社会でも、犯罪被疑者の人身の自由以外の一般的な財産権の保護については、差し押さえ令状などの裁判所からの令状によって行われる。これは人身の自由と同じように、不当な個人財産の押収や差し押さえを防ぐ必要があるからである。

 しかし、現行の令状主義と、警察が警備会社となった場合の令状主義には大きな違いが生じる。現在の令状は、まさに警察が被疑者の人権を侵害することに対する「許可証」の役割をもっている。警察は、被疑者が怪しいという程度の疎明をすることによって、裁判所から人権侵害の許可証たる令状の交付を受け、それによって逮捕・捜索・差し押さえを行う。犯罪の嫌疑に基づく令状があれば、その結果として有罪の証拠が得られなくてもかまわないし、逮捕に対しても全面的に民事的な保障をする必要があるわけでもない。

 これに対して、警備会社の受ける令状は、被害者の警備会社と被疑者の警備会社の同意した仲裁会社から発行される、人権侵害の「一応の」許可証であるという意味では同じである。しかし、被疑者の無罪が証明された場合には、捜査を行った警備会社には「完全な」民事的な損害賠償を行う必要が生じる。それは、国家が冤罪の被害者に対して温情として行う刑事補償法などとは、まったく異なったレヴェルでの被疑者の保護につながる。これによって、犯罪捜査や冤罪から生じる人権侵害はすべてがなくなることはないだろうが、現在よりもはるかに少ないものになるだろう。この点に関しては、第8章において、人権保護の観点からもう一度詳細に検討することにする。

 また第8章では、これらの令状主義の原則に反してなされた逮捕や押収から得られた証拠(違法収集証拠と呼ばれる)の、裁判での証拠能力について考察する。そこで、アメリカの現行制度である違法収集証拠排除の原則は、あるいは警察活動の民営化によって修正される可能性があることを吟味しよう。

 

個別予防的視点

 私がここで議論しているような刑法と民法の統一的な犯罪法においては、個別予防の観点はまったく取り入れられていない。ある殺人犯が、被害者の家族から賠償を請求された場合、彼は合法的に社会で働き、被害者がこうむった額を賠償することが可能であるような制度が採用されるかもしれない。その場合、当然、犯人は一般社会で生活を続けることになるから、彼には再犯のチャンスが常にあることになる。あるいは殺人を複数回にわたって犯した犯人は死刑になるかもしれないが、それは個別の犯罪による被害者の意思によって決定されることであって、社会防衛のためと称して他者が決めることではなくなる。

 多くの市民は、性犯罪者などの累犯性の高い犯罪者を、一定期間刑務所の中に抑留し続けることには、次の犯罪を未然に防ぐという個別予防効果があると考えている。これは間違いなく、論理としては正しいものだろう。

 しかし、前述したように刑務所の運営費用は決して低いものではなく、労働刑務所がどの程度効率的でありえるかも予想できない。だとしたら、犯罪の賠償には、犯罪者の体内にGPSなどを埋め込んで見張りながら、同時に過去の犯罪の賠償をさせるほうが合理的であろう。もちろん後述するように、カント的な応報思想などから、犯人を牢獄に閉じ込めるのが正当だと考える被害者には、そのようなオプションが有料、あるいは無料で提供されるだろう。

 ここで、個別的予防の観点というのは、典型的に性犯罪の累犯者に見られるように、潜在的な犯罪者を社会から隔離することによって、不特定の人びとを守ろうとする社会防衛的な視点のことである。これは経済学でいうところの公共財であり、その費用を負担する潜在的な被害者が分散しているために、どうしても過小になってしまうとも考えられる。

 私が理解するところでは、このような問題の本質は、まさに自由権のもつ負の側面に他ならない。各人が最大の活動の自由を持つのであれば、高い犯罪的な性向をもつ人もまた高い確率で多くの犯罪に走ることは避けられないからである。

 だが、これに対しては、よく機能する解が存在しているように思われる。

 犯罪を何度もする人間は、弁護費用がかかるために、次第にリスクグレードの高い顧客となり、おそらく3度も有罪判決を受ければ、警備会社と保障契約をかわすことは現実的にはできなくなるだろう。そのような犯罪常習者を警護することは、警備会社のイメージを損なうため、警備会社は累犯者と契約することはなくなるだろう。つまり、そういった人物はアメリカ開拓時代の西部劇における、アウト・ローであると宣告された状態になると考えられるのである。

 バーネットは『自由の構造』において、三度の累犯を行ったような前科者は、スリー・ストライク・アウトの原則から、その後は警備会社との契約を拒否されるアウトローとなるだろうとして論じている。ということは、彼らの権利は、その後すべての警備会社では守られることはないということを意味する。私は、そのようなアメリカ開拓時代的な状況ではなく、自動車保険のように犯罪者は累犯によって累進的に不利益な契約状況におかれるのではないかと考える。あるいは、累犯性が高ければ、ほとんどすべての会社から警備契約を拒否されるだろう。

 警備会社と契約ができない個人の状態とは、他人からの暴力の裸の危険にさらされることを意味している。おそらくは犯罪被害者の親族なり、誰かなりがその命を奪うこともあるかもしれない。いうまでもなく、警備会社をもたない累犯者を被害者、あるいはその家族が殺すことは、「道徳的」には望ましくないかもしれないし、あるいは望ましいかもしれないが、「法律的」な問題を引き起こすことはないのである。

 無政府社会の法は、会社間・個人間の契約の束であり、相互に直接的、あるいは間接的に契約関係においてつながりがあるもの同士の関係を規定することはあっても、間接的にさえ相互に契約関係にない個人間では、事実的な問題は生じても、法的な問題は生じない。それは、ある個人と無主の動物との関係と同じになるのである。

 警備会社を持たないアウト・ローである個人が殺された場合、その親族・類縁は彼らの警備会社に相談できる。しかし、その結果、被害者はアウト・ローであったために、彼に対する殺害から生じる損害に対しては警備会社が回復努力をすることはないということを知ることになるのである。

 個別予防は、確かに重要な概念である。無政府社会での人権保護は必然的に、現在国家における人権保護に比べれば、犯罪を常習としてきたものに対する冷遇を意味するだろう。そのような制度は残酷、あるいは冷酷ではあるかもしれないが、(あるいは現在の制度が甘すぎるとも考えられるが、)ともかく人身の自由と個人の契約の自由の妥協点としてはやむをえないだろう。

 

犯罪への損害保険と適切な量刑

 警備会社が顧客の獲得をめぐって競争をするなら、少なくともいくつかの会社、あるいは大多数の会社はそのパフォーマンスを保障するために、顧客が犯罪被害にあった場合には、その損害を補償するのではないかと思われる。この意味での損害保険と警備会社の機能的な関連については、フリードマンやロスバードをはじめとして多くの論者が指摘してきた。

 現在のように、警察が国家によって運営されれば、その運営責任が誰によってもとられないという無責任体制は永続するに違いない。しかし、民間の警備会社はサービスを競い合えば、犯罪に対する損害補償が警備契約の付帯契約となって一般化するという状況は、大いに予想されるのである。

 この場合、犯人に対する量刑においても興味深い考察が成り立つ。

 話を単純にするために、犯罪の被害に対しては、その捜査や逮捕、判決にいたるまでの費用も含めて全額が損害保険によって補填されるとしよう。また犯罪は同質で、被害額、捜査費用、逮捕率、その他も一定であるとする。ここで、被害額をD、その捜査その他の費用をE、犯人処罰の確率をP、犯罪の量刑(罰金額)をRとすると、前述したように合理的な一般予防のための罰金額は、次の関係が成り立つことを要求する。

 

   R×P  D 、    あるいは R  D÷

 

つまり、犯人の複数回行為の犯罪による期待利得(被害額)よりも、罰金額のほうが大きくなければ、一般抑止効果はないのである。

 ここで、Dは被害者に対して警備会社によって補填されるため、警備会社の立場から見ると、犯罪1件当たりのコストは、Dに捜査費用を加えたものとなる。かりに捜査や裁判に費用を無視すると、D÷Pによって処罰される犯人1人当たりの警備会社の費用となる。警備会社が実際に有罪にできた犯人に対して、1人当たりRを罰金額として課するなら、警備会社は被害者への損害賠償額を、犯人への罰金によって回収することができることになる。

 これは考えてみると、ある程度予想できることである。なぜなら、一般予防になるような罰金額とは、まさに潜在的な犯罪者にとって、期待利益と損失とが一致するような量なのである。とするなら、犯罪全体を平均した場合、被害の全額(犯罪者の利得の全額)は実際に捕まった犯人によって、完全に賠償されなければならないのである。

 警備会社は、犯罪の被害者に即座に被害額を保障し、その後、犯人を捕まえることによってその回収をする。そのためには、賠償額を被害額の1/P倍にすることによって、ちょうど一般予防が成り立つと同時に、被害者にとっても完全な保障となる。この意味において、一般予防目的の量刑が警備会社によって正義の法として基準となれば、それは犯罪被害の損害保険料をちょうどカバーする。この場合、原則的には無政府社会の人びとは、完全な犯罪保険を警備会社から提供されるという、もっとも望ましい状態が実現する。

 さてここでは、1/P倍の量刑が応報感情にかんがみて、適切なものであるかどうかについては考えなかった。現代の犯罪統計に照らしてみれば、窃盗などの軽微な財産犯では犯人の検挙率は50%を大きく下回っている。たとえば、ICPOによる犯罪率統計によれば、02年の日本の全犯罪の検挙率は22.9%である。殺人については95.7%の検挙率だと報告されているため、軽微な財産犯罪では犯人の多くが検挙されていないのである。

 かりに応報的正義の感覚というものが、ロスバードが考えたようにちょうど2倍の賠償であるとするなら、応報の正義は警備会社による完全な犯罪額保障とは一致しない。しかし、一般予防に資する適切な刑罰の量刑が、同時に、犯罪被害額の完全な保障を意味するのであれば、納得する人も多いのではないだろうか。無政府の社会では、現在のようになんの基準にも基づかない場当たり主義的な量刑から、次第に一般予防目的の量刑に収斂してゆく、あるいはそれが多数になってゆくように思われる。それは少なくても合理的だからである。

 ここで、興味深い考えが浮かぶ。それは、検挙された犯罪者に対して、さらにE/Pの犯罪捜査費用、また予防費用までも負担させるなら、一般市民は無料で警備会社と契約し、完全な犯罪保障を得ることができる可能性があることである。検挙された犯人に対して、ここまでの罰金を課すことが応報倫理、あるいは犯罪者の人権への配慮からして望ましいのかどうかは、私には疑わしく思われる。しかし、厳罰を望む人びとはそのような量刑を行う警備会社・仲裁会社と契約することによって、無料の警備を実現するかもしれない。人間の多様性を考えれば、彼らはそれこそが社会正義であると主張しさえもするだろう。

 しかし、このように無料の警備と犯罪の捜査・処罰を実現したとしても、そういった厳罰主義的な主張をする契約者は、警備会社に対して今度は際限のない警備と、犯罪への捜査を求めるようになるはずである。なぜなら、契約者にとっては、警備の量も受けた犯罪被害への捜査の量も無料である以上、それらの活動への要求には上限がなくなってしまうからである。

 現実として、この上限に当たるのは、処罰された犯罪者から得られ生涯賃金の全額、あるいは人体実験料金、あるいは彼のもつ臓器の価値全体が上限を画することになる。この場合、一般予防効果は極限まで高まるが、その結果は、すべての犯罪に対して終身労役や死刑が課されることになってしまう[2]

 これも抽象的な哲学としては可能ではあるが、私が感じるところではそれは明らかに行き過ぎた量刑であり、どのような基準からしても犯罪者の人権の蹂躙であると感じる。おそらく、このような過度の厳罰主義は、人道主義的な感情から受け入れられないのではないだろうか。

 しかしどのような程度の量刑が望ましいと考えられるにしても、どれだけの量刑が実際に執行されるようになってゆくのかは、人びとに多様な意見の集合にゆだねられるべきである。現在の日本のように、国家が完全に何の根拠にも基づかないままに過去の判決の累積から相場をつくって、「1人殺せば懲役7,8年、3人殺せば死刑」などと決めるよりも、上述のように犯罪への補償割合と量刑を連動しているという制度にしたほうはるかに望ましい。なぜなら、そういった制度にしてはじめて、人びとは犯罪への適切な量刑という漠然とした抽象的問題を、犯罪被害に対する警備会社による保障という、自分の生活の問題に還元して考えることが可能になるからである[3]

 これは明らかに無政府社会の持つ、正義の実現に向かっての大きな利点であろう。

 

民事訴訟における警備会社の役割

 現在の民事訴訟制度においては、私人が互いに争訟し、その裁判の結果として裁判所は公的な執行力を持つ債務名義という書類を発行する。これによって、国家的な強制力が判決に与えられ、内容が実現されることを裁判所執行官、ひいては警察のもつ実力によって担保しているのである。

 無政府社会の民事訴訟でも、問題を抱える個人は仲裁会社にその最終的な判断を仰ぐことになる。いかなる法律的な問題についても、個人同士が納得できない場合には、直接の実力行使が警備会社によって抑止されている以上、何らかの仲裁活動が必要となる。

 とはいえ、無政府社会の民事訴訟は、私人が直接に仲裁会社に訴えるというような現行の民事制度とは異なり、互いの警備保障会社を通じてのものになるだろう。なぜなら、個人同士が直接に仲裁会社に訴えたところで、その判決はほとんどの場合、どちらかの当事者は不満を抱くものとなる。とするなら、判決内容を実現するためには物理力による強制が必要であり、仲裁裁判の実効性を確保するためには、双方が自分の契約する警備会社を通じて解決を図ろうとするしかないからである。

 このような民間の警備会社を通じた民事訴訟制度には、現行の民事訴訟制度にはない利点が数多くある。たとえば、ベンソンは『法の企て』において、騒音や臭いなどの地域の苦情については、強制力を持たない仲裁活動でさえも問題解決に非常に有効であることを報告している。自分自身について考えても、直接に他人から苦情を言われるよりも間接的に紛争関連機関から指摘されたほうが、冷静に聞くことができることは多いように思われる。

 そして、第一次的な警備会社による仲裁活動がうまくいかなかった場合にも、当事者同士の警備会社の従業員が弁護士として訴訟を遂行したほうが、専門家が助力してくれるという意味で迅速で公正な仲裁裁判が実現する可能性が高いだろう。

 最後の点は、いうまでもなく警備会社の参加がなければ、裁判内容の実現は担保されないということである。上述したように、現行制度の裁判所執行官、それをバックアップする国家の警察権力は無政府社会では存在しない。とするなら、それにかわって裁判内容の担保をする物理力は当事者の契約する警備会社にならざるをえない。

 このように、無政府社会での警備会社は、契約者の刑事事件に関係したことだけでなく、日常の法律問題全般について相談を受けるような、はるかに身近で多岐にわたる後見的な役割を果たすものになるだろう。それは営利企業ではあっても、現在の警察と市役所などの行政の役割を持つ、市民にとって第一義的な親近感を覚えるような組織になる。同時にそれは、正義をめぐる政治的な性向をもつ、現在の政党のようなものでもあるに違いない。

 あるいは金融詐欺などの危険性まで考えれば、現在の銀行が行う資産運用までの相談を受けるようになる可能性さえもあるだろう。例えば、現代の各企業は、交通機関であれ、スーパーであれ、銀行であれ、携帯電話会社であれ、消費者としての個人の全般的な消費行動のハブになりたがっている。消費者の第一次的な信頼を勝ち得た中核企業になることができれば、大きな付随的な利益がくみ出せるからである。無政府社会では、第一義的な信頼は警備会社に置かれるだろう。なぜなら、これまで考察してきたように、無政府社会の警備会社は、個人の身の安全を守り、各種の社会生活上の問題の相談をも受け、それを解決するというもっとも重要な役割を果たすことになるからである。

 

暴力団は警備会社となるのか

 警備会社が自由に設立されるとすると、暴力団に組員は自発的に自分たちのための警備会社をつくるのではないかという疑問が湧くかもしれない。この場合、彼らを抑制するような、一枚岩の警察機構がなければ、彼らの暴力活動は野放しになるのだろうか。

 警察の活動が今ほどに一元的でなければ、暴力団の仕事がやりやすくなるというのは現実かもしれない。しかし、ほとんどの警備会社とうまくやっていけないヤクザ警備会社は、ほとんどすべての警備会社との常なる軋轢のなかにある。ほとんどすべての警備会社との戦いは絶望的であり、ヤクザ会社が大きな勢力となることはない。

 ヤクザ組織が拡大するどころか、はるかに縮小するだろうという予測には、もう一つの大きな理由がある。基本的にパターナリズムに基づく規制のない無政府社会では、現在の暴力団が資金源にしているような麻薬や覚せい剤、ヘロインなどの禁制品取引は現在のタバコの販売・購入と同じように合法となる。そのため、大きな資金を生み出すようなビジネスにはならないのである。現在も、タバコの生産・販売は競争的であって、それほど利潤率が高いものではない。あらゆる麻薬類は、自由化されればその価格は劇的に下がってしまう。

 これによって、禁制品をめぐる抗争はなくなり、また禁制品を買うための強盗や窃盗も激減する。こういった自明の論理は、日本に比べてはるかに長期間、深刻に麻薬と戦い続けてきたアメリカでは、麻薬合法化の主要な論拠となり続けてきた。

 ここでは一種の反面教師として、禁酒法の時代のアメリカについて考えてみよう。酒類が体にも社会にも悪いということで、1920年代にピューリタニズムからアメリカでの消費や取引が禁止されると、たちまちに闇取引の酒の値段は上がった。アル・カポネなど有名なシカゴ・ギャングがその密売利益をめぐって暗躍するようになったのである。これを阻止すべく、アメリカは警察の権限を強めるため、連邦諜報局であるFBIを新設したほどであった。しかし、結局1937年にはアルコール類の禁止は撤廃され、それと同時にギャングたちは劇的に勢力を弱めてしまった。

 暴力団が禁制品を取り扱うことができないのであれば、粗暴な人間同士が寄り集まっているだけであり、ゆすりたかりなどの他はほとんど何もできない。よって、無政府社会では、暴力団が運営する警備会社の脅威というのは実際にはほとんどまったく存在せず、むしろ暴力団はほとんどなくなるだろう。

 現在でも警察に勤める人たちは、平均よりも正義感が高いだろう。無政府社会の警備会社でも同じである。現在、警察官を天職とするような正義感にあふれる人たちは、無政府社会でも警備会社で犯罪を抑止し、犯罪者を捜査することになる。ヤクザのような正義とは反対の動機を持つ人たちは、一般の人から契約を受けることもできず、禁制品からの利益を得ることもできなければ、正義感を持つ警備会社に圧倒されて消滅するしかない。

 

警備会社の準拠する法体系と正義

 無政府社会での各警備会社は、他の警備会社との間に、どの仲裁会社を使うのかという点についての二社間の合意をもっている。原理的には、警備会社の数以上の裁定会社が存在することも可能だろうが、初期は現行制度のもつ惰性によって、その後も法体系の重層化の非効率によって、その数は1ケタ台にとどまるだろう。前述したように、裁定会社の令状の発布によって、実際に事件が発生した際には、迅速に被疑者の身柄の拘束が可能となる。

 さて、「無政府の社会では、究極的な権威付けは単なる物理的な実力、つまり暴力でしかない。だから正義を究極的な基盤とする現行の政治体制とは異なって、道徳的に正当化されない」と考える人たちもいる。平たく言ってしまえば、無政府社会では物理的な実力が最終的にものをいうのに対し、現存の国家の場合は「正義」がものをいっているという意味で、よりすぐれているというのである。

 しかし、これは完全な誤解である。

 営利を目的とする各警備会社は、仲裁会社の提供する「人間の正義の感覚に準拠した刑事訴訟法と手続き」によって、犯罪の被疑者をとらえ、あるいは顧客である被疑者を引き渡す。この意味においては、現在の法治主義的な手続きとまったく同じである。そもそも、人びとが十分に正義を体現していると考える法に基づくという正統性の根拠がなければ、強盗団による強制を別として、警備会社としては一般市民から信頼されて契約されることはない。よって市民から信頼されるために警備会社が依拠する法律は、今の強制力を持った政府の決定している法律以上に、我われの正義感覚と調和したものとなるのである。

 より現実的に考えても、裁定会社の提供する法律は、その初期においては、現行の法体系とほとんどまったく同じであるはずである。なぜなら、裁定会社は主に実務法曹によって構成されるだろうが、日本法はすでに開国から140年、アメリカによる支配と民主化からも60年以上もの伝統を持っている。そして無政府社会の法は、政府を有する現存の日本の法システムから派生・進化してゆかざるを得ないからである。

 また、その反対に、現存の国家について考えてみよう。現存の国家は、すべての個人を同一の処遇に処するが、だからといって、それが当事者の双方の満足のゆくものであるという保障はない。また、裁判所の裁定に「正義」に反するものがあったとしても、現存の司法権力は、警察機構に代表される国家権力そのものによって、その結論を強制することができるのである。

 一例を挙げるなら、公害事件などの被害者が、国家に有利な裁判所の判決の妥当性に不満をもつことは多い。しかし、そのような不満は結局解消されないままに、時間とともに消えていかざるを得ないのが現実である。この意味では、現存の警察と裁判所も、どのような判決が正義なのかが一義的には定まらない場合、究極的には物理力に裏打ちされているために秩序が維持されている事実はやはり同じなのだ。

 違いは、現存の警察や裁判所は脱退することができないのに対し、無政府社会の警備保障会社と仲裁会社は気に入らなければ、他のものを選ぶことができるという点にある。そして、このことが一つ一つの警備会社の独善的な活動を防ぎ、仲裁会社の提供する法体系を未来に向かってより「正義」にかなうものにしてゆく原動力となるのである。

 

警備会社の規模はどの程度か

 無政府社会の実行の第一歩としては、各都道府県警を民営化し、各人はその望む警備会社と契約をするというようなものが考えられる。そういった民営化された後の警備保障会社は、現在の県警程度の範囲を主な営業範囲とするのだろうか?

 これまでの多くの無政府資本主義者たちは、そう考えてきたようである。現存の領域的な警察活動を思考の出発点とするなら、地域的にほとんど独占的な警備会社が出現するのは自然なようにも思われる。たとえば、フリードマンの『自由のためのメカニズム』では、地域に支配的な警備会社がそれぞれの地域レヴェルで存在するだろうことを前提にしている。また、ノージックの議論でも、地域に支配的な警備会社が発生し、それが国家となるという論理を展開している。ベンソンもまた、アメリカの自治体である市や郡レヴェルでの自警団が警察となると考えているようである。しかし、アメリカでいう自治体とは市や郡であり、それは日本でいうなら市町村であり、県のような広域区画ではないことは重要である。

 次に、議論を、1、事前のパトロールによる防犯を中心とする警備会社と、2、犯罪後の犯人の検挙を主な役割とする捜査会社、に分けて考えてみたい。これは恣意的な区分ではなく、実際にこの二つは、相当程度に異なった役割を担っている。現在でも、事前の防犯活動を主とする民間の警備会社と、犯罪の抑止よりも犯罪後の捜査、逮捕活動を主とする警察の役割が、多くの国で分担されつつあるのだ。

 アメリカではいうまでもなく、日本においても、地域共同体の相互の協力・監視機能の低下と、それに伴う治安の悪化に伴って、各地で自警組織が活動を始めている。2004年には自警組織の車両には青色の信号灯をつけることを許され、ますます地域住民の自発的な防犯活動は高まっているのが現状だといえるだろう。

 あくまで私個人の予測に過ぎないが、このパトロールを中心とする警備会社と、捜査を中心とする警備会社はおそらくはペアになって、人々と契約をするようになるのではないだろうか。各家庭や地域、あるいは高層ビル、工場施設などをパトロールする会社は、事件を確認するとその契約する捜査会社に以降をゆだねるのが効率的であろう。

 これには、それなりの理由がある。たとえば、2007年の日本では48万人の警備従業員が存在しているが、その組織の数は6700社にもなる(全国警備業協会による)。ということは、おそらく、警備会社のパトロールするような施設の数や、組織の規模はせいぜい100人以下のものがほとんどになるだろうと予測されるのである。

 もちろん、現在のSECOMやALSOKなどのように何千人もの従業員がいるということにも、おそらくは規模の経済があるのかもしれない。とするなら、パトロールを行う警備会社もある程度、巨大なものになる可能性もあるだろう。

 しかし、パトロール活動に比べて、捜査活動ははるかに複雑で込み入った活動である。物証から被疑者を割り出すための科学捜査も必要であり、また被疑者の広域的な逃亡の可能性も非常に高い。犯罪活動とそれに対応する捜査活動の状況をみれば、明らかに現代のコンピュータ上の犯罪活動などは広域化しており、人間の国内・国外的な移動の容易化はこれからも続く傾向である。この状況から推し量れば、全国規模の複数の警備会社が並存するのが自然なように思われる。

 同じように、現在の科学警察活動は、日進月歩で専門性を増している。かつては、せいぜいが指紋の採取や自動車の塗料の分析などが典型的な犯罪捜査業務であったかもしれないが、現在では、容疑者のDNA採取や検定、さらに監視カメラでのソフトウェア的な自動的な個人識別など、多種多様な科学的専門チームが必要となりつつある。専門家の育成も含めて、規模の利益は現在進行形で大きくなってきており、将来の科学技術はさらにそれを強めるだろう。

 おそらくは、各警備会社や捜査会社は、それぞれが強みとする特徴によって、消費者から選ばれることになる。その結果として、いくつかの警備保障ネットワークが、ちょうど携帯電話のキャリアのように全国的に展開するのではないだろうか。

 警備会社が民間企業であるなら、いうまでもなく、長期的には国際的な合併なども起こることになるだろう。そして現在の電話会社や電力会社などのように世界的な規模で、契約者への警備活動を展開する企業も現れるに違いない。

 また所得のとくに高い階層のためには、はるかに高額な契約料の警備会社も現れるだろう。一般に高所得の人びとは、低廉で画一化されたサービスよりも、高額でも、より丁寧な取り扱いをうけるオーダーメイドのサービスを好むものだからである。ちょうど、今の自動車産業は、大衆に向けたリーズナブルな企業と、特殊なニッチェを目指す高額な自動車会社に分化している。これと同じような状況になるというのが自然な憶測だろう。

 さらに状況を複雑にするのは、警察活動は人間の道徳感情と交錯する部分が多いために、警備会社は民間企業とはいえ、「政治的」な側面をもつ可能性が高いことである。これはつまり、犯罪の処罰や抑止という問題には、ある種のイデオロギーを含まざるをえないということでもある。

 おそらくは、容疑者の人権を極度に擁護する形で捜査をする会社は、必然的に検挙率が落ちるだろう。人権重視の会社は容疑者を逮捕・捜索・差し押さえなどをすることに慎重であり、またその捜査活動も謙抑的であるはずだからである。それでも、人権を重視する個人は、その正義感からこうした左翼的(ピープルズ・ポリス)と契約するだろう。もちろん、高い人権保護の代償は、より低い検挙有罪率につながらざるを得ない。

 反対に、現在の国家警察のように、自白を目的に逮捕活動を行い、捜索差し押さえ令状には「・・・、その他いっさいの関連するもの」として、容疑者の私有物のほぼすべてを差し押さえるような会社は、おそらく高い有罪率を誇るだろう。その代償が大きな人権蹂躙なのである。この意味で、社会秩序を重視し、人権を重視しないという、現在の国家主義者のような精神性をもつ人びとは、強権的・高圧的な警備会社と契約することになる。

 つまり、無政府社会においても人間の価値観が並存して対立し続ける以上は、どのような警備会社を望むのかは、まさに現代の政党の支持者たちと同じ性質の軋轢を生じさせ続けるのである。そして、それらの人びとが社会に遍在する限り、警備会社は現在の政党と似たような対立軸をもちながら、全国的に並存するだろうと予測されよう。

 この点については、また法律の進化について考える際に立ち返ることにするが、ここで、法の進化の論点を少し先取りしてみよう。

 われわれの一人一人がその思想、つまり何が正義であるのかについて、大なり小なり異なった意見をもっている。そういった人間の倫理的な感覚の多様性を前提にすれば、望ましい犯罪の捜査手続き、刑の種類や程度には、大きな変異があることは間違いない。とすれば、よほど価値観の同一な人びとによる宗教的な共同体のような地域を除いては、ある地域における支配的な警備会社の存在というのは、ますますありそうもないということになる。

 このような理由付けが正しいとするなら、フリードマンの「(警備会社の)数は3社というよりは1万社に近くなるだろう」[4]ということになろう。現在の政党や通信会社、都市銀行などの一桁の数を前提にすれば、1万社というのは防犯警備会社についての数であり、それと並行して存在する捜査会社は非常に少ない数になるだろう。日本やアメリカなどにおいても、多くても一桁程度といったものになるように思われる。

 とはいえ、あるいは私は根本的に誤っているのかもしれない。政党政治では、数の優位は絶対的だが、これとは反対に、民間企業では巨大な組織は往々にして非効率的なオーバーヘッドコストをうみだす。よって、警備会社の分布は政党や通信会社、都市銀行というよりは、信用金庫のような地域的に散在する企業の連合に似たものなる可能性もあるだろう。

 

人間の正義感の多様性と警備会社の政党化

 近代以降の社会には、ほとんどにおいて右派と左派のイデオロギー闘争があるようである。そして、右派は例えば、外国人に対して攻撃的であり、個人は実力に応じて処遇されるべきであると信じている。これに対して、左派は外国人に対して融和的であり、平等を志向するだけでなく、さらに教育による人間の無限の可塑性を信じるような傾向がある。

 私は、このような人格と世界観の違いには生物学的な基礎があるのではないかと考えている。

 進化生物学における古典的なゲーム理論の応用は、オックスフォード大学のメイナード=スミスとプライスによってなされた、タカハトゲームについてのものである[5]。自然界には、攻撃的なタカ派の行動戦略をとる個体と、平和友好的なハト派の行動戦略をとる個体がいる。もちろん、ある個体が常に同じ戦略をとるというよりは、相手や状況に依存して決まることも多いが、ここでは議論を簡単にするために、いつもタカ戦略をとる個体と、ハト派戦略をとる個体がいるものとしよう。

 タカ派はハト派との交渉からは譲歩を引き出して有利にポイントを稼ぐが、タカ派同士がぶつかれば、大きな損失が出る。ハト派は、タカ派にはやられるがそれほど大きな損失はなく、ハト派同士では両方が大きな利得を得る。

 メイナード=スミスとプライスは、このような場合、社会には一定の頻度でタカ派の個体とハト派の個体が入り混じって存在するだろうことを示した。このようなゲーム理論上の安定解は、進化的安定戦略(ESS)と呼ばれる。経済学でいうナッシュ均衡だが、ESSの場合は、大域的に安定であるため、時間がたつとかならずその状態が実現されるという意味で、ナッシュ均衡よりも強い概念である。

 さて、これは常識的に考えても当然の結果だろう。タカ派が増えすぎれば、タカ派同士が出会う確率が上がり、タカ派は共倒れになってハト派よりも不利になってしまう。反対に、ハト派が増えすぎれば、タカ派は出会うほとんどのハト派から大きな利益を得ることになり、ハト派同士の協調行動からの利益を圧倒して、増殖する。とするなら、どこかにタカ派とハト派の期待利得が同じであるような一定のタカハトの存在割合があることになる。

 お分かりのように、私がここで生物の行動戦略のゲームを持ち出した理由は、人間の政治信条とは、ヒト社会における行動ゲームだと考えるからである。上述したように、近代を形作ってきた古典的な対立である右派と左派の対立のことである。

 右派、左派という名称は、フランス革命時の政治信条別の議会での着席位置に由来しているが、その具体的な内容は、歴史的にも地域的にも一定とはいえない。しかし、総じてフランス革命以来の民主主義l国では、この対立軸はそれなりに有用なものとして世界的に確立している。日本の自民党と旧社会党、アメリカの共和党と民主党、イギリスの保守党と労働党などである。

 左派は弱者を含めた友愛と共感を、建前としてきている[6]。これに対して、右派は歴史的な保守主義、王党派、愛国を是として、各人の実力に応じた物質的な処遇を肯定する。この差が、政府による再分配を、弱者への共感の一環として行う左派と、能力のあるものからの強奪だと考える右派との違いを生んでいるのだろう。もちろん、政治的な信条の違いがこれほど単純なものであるという断言するのは早計に過ぎるが、少なくともこのような考えは、人びとの持つ政治感情の分析の端緒とはなるだろう。

 さて、人間の心にこのような二つの代表的な考えがあるのは、タカハト戦略と同じようなおそらくは遺伝的基盤を持つ頻度依存型の戦略均衡だからではないだろうか。人びとは長い社会生活の中で、それぞれの考えを頻度依存的に繁殖戦略として取り入れてきたのだろう。一卵性双生児を使って推定されている性格の遺伝率は非常に高いため[7]、人間観がそのまま個人の行動戦略となって繁殖に有利不利になったというシナリオは十分に考えられる。

 右派は実力を重視するタカ派であり、左派は強調を重視するハト派だといえるだろう。右派は社会内の実力に応じた処遇を要求するため、弱者保護を掲げる左派よりも単純に利得が高くなる。これに対して、左派は弱者保護を掲げることによってより多くの人びとからの協力を引き出して利得を高める戦略なのだろう。もちろん、これは過度の単純化だが、有用なメタファーではあると思われる。

 このような理由から人間の性格、さらにそれに基づく世界観によって、世界の民主主義政治は展開し続けてきたのだろう。そして、そういった政治的な勢力は現在でも、人権問題を含む多くの法制度や、弱者保護である経済政策をめぐって、論戦を戦わせているのである[8]

 無政府の社会においても、このような人間の基本的な世界観、人間観に由来する対立は残るだろう。それは前述した刑事における、警備会社による被疑者の人権蹂躙の許容度の違いや、犯罪への量刑の違い[9]、また民事では契約の詐欺性をどの程度認めるか、また個人の破産制度を認めるかどうかなど、無政府であっても共通であることが望ましいような多くの法制度について意見が対立するのである。

 長期的には、後述するように法はそれぞれに分化して多元化していくだろう。そして、それにともなって多くの警備会社・仲裁会社は異なった法律を実践することになる。警備会社や捜査会社は、長い時間の内に次第に現在の政党のように主義主張を明確にし、その勢力範囲の伸張を競い合うのである。

 さらには、警備会社の経営者たちは、現在の政党の指導者たちと同じように、他の警備会社との交渉の責任をとることになる。また契約者や一般国民は、現在の党員や一般国民と同じように彼らの行動を非難したり、評価したりするだろう。

 もちろん、警備会社が重大な契約不履行をしていたり、あるいはもっと大きな人権侵害を行っているというのであれば、そういった報道によって当該警備会社は倒産・消滅の危機に瀕することになる。警備会社の数と同じか、それ以上に多くの報道会社のニュースによって警備会社の腐敗が抑制されるだろうし、当然にそれらの報道会社やジャーナリストは別々の警備会社と契約しているだろう。

 プラトンは「人間はポリス的な動物だ」といい、アリストテレスはさらに「人間は政治的動物だ」と定義した。これに関しては、多くのリバタリアンは社会と政治は同じものではない、として、この命題を過小に評価しようとしてきた。しかし、人間の価値観が異なっている以上、異なった人間が集まって生きる社会には、不可避的に道徳的な色彩を帯びた集団活動が発生するだろう。無政府の社会でもそれは同じであり、おそらくは警備会社・仲裁会社の経営陣が現代の政治指導者に近い役割を担い、現代と同じようなほとんど人格非難のレヴェルの、(私にとっては無意味でしかないような)毀誉褒貶の評価にさらされるのではないだろうか。この意味では、無政府社会は静謐な止まった社会ではなく、常に多くの擬似的な政治活動が現在と同じように行われるダイナミックなものだと予測される。

 すでに読者は気づいていたかもしれないが、前述のジャパン・ポリスは体制派であり、保守だといっていい。それに対して、ピープルズ・ポリスはそれに挑戦する、社会民主主義的な、人権重視的な警備会社を念頭に置いた会社である。そこでは、経営者は現代の政治家と同じように、会社にハードコアなコミットをする、契約者である株主たちによって株主総会で選ばれ、執行部は取締役会となるだろう。

 さらに進んで、「警備会社」のいくつかは現在の営利企業のようなものではなく、むしろ政党に近い存在であるかもしれない。それは警備会社が独自の倫理観を主張しつつ、顧客の獲得を目指すという状態についてのみ当てはまるのではなく、あるいはその代表者、経営者は顧客でもある党員による選挙によって選ばれるかもしれないという意味においてである。どのような組織形態が警備会社が主流のものになるのかはわからないが、あるいはある程度の効率を犠牲にしても、多くの顧客は「投票」のような倫理にかかわる行為を会社の意思決定に望むかもしれない。

 私見によれば、おそらくは初期には右派は会社組織に警備をゆだね、その意思決定には関与しないような株式会社と契約をする反面、左派は会社の意思決定への参加の意義を重視して、組合制度に近い組織と契約するだろう。現在でも多くの理由から、多くの会社は従業員が株主である従業員持ち株会社である。左派思想は、参加型の平等を効率性に優先する思想だといえよう。よって、現代の政治思想における国家主義的な左翼は言うまでもなく、コミュニタリアンやリベラリストの多くは、一般人よりも「政治」活動を重視するという意味において、契約者持ち株会社のような組織を支持するはずである[10]

 この点は、法の進化の方向にも影響を与える。左派が死刑の反対を訴え、右派が死刑の存続を訴えるのは今後も同じだろう。無政府の社会は、それぞれに応じた法制度の分化的な発達を予測するのである。

 また、これらの政党化と同じように、宗教教団が共同体としての警備会社を運営する可能性も高いように思われる。現在でも、創価学会は公明党と一体的であることを考えれば、無政府の日本では、あるいは一般人となった天皇家を宗主とする神道教団が最大の警備会社となるかもしれない。少なくとも、ヨーロッパにおけるローマカトリック教と同じような大きな影響力を持つことにはなるだろう。

 

警備会社による独裁国家の出現と社会の安定性の問題

 無政府主義に反対する論者の多くが、警備会社は相互に協力して、強権的な独裁政治を再開するのではないかという危惧を表明する。あるいは、警備会社は内戦を起こし、その勝者が独裁国家へと変貌する可能性を指摘するのである。

 これらは、もっともな批判である。とはいえ、この批判には限定が付されるべきであろう。いうまでもなく、警備会社の数が多ければ多いほど、1社、あるいは談合などでの数社による治安維持能力の独占の可能性は低くなる。つまり、独裁の再発明の可能性は下がるのである。

 独裁制の出現の危険性についての議論は、フリードマンによって完成されている。

 10社の警備会社を前提にしよう。あるいは3社でもいいだろう。いずれか、あるいはすべての警備会社が、最終的に独裁政治の確立を目指すことが起こりうるのかどうかは、最終的にはわれわれの社会の構造に対する価値観に依存する。圧倒的多数の人びとによって、無政府社会が政府を持つ社会に比べて優れているのだと認識されているとしよう。その場合、そもそも独裁政治の確立を目指す警備会社は、その従業員の造反によって自壊するか、他の多数派の警備会社との戦闘によって消滅することになる。

 また、警備会社の経営者はまさに会社経営と顧客満足度の上昇についてのプロフェッショナルだが、必ずしも権力の亡者ではないだろう。これに対して、「我々の社会では、このような政変を監視する人々は政治家、将校、警官であって、権力を欲しそれを利用することに長けているという、まさにその性質によって選ばれた人々である。彼らは、自分が他人をこきつかう権利を有するとすでに信じこんでいる人々だ。それが彼らの仕事なのである」[11]という事実を考えれば、現在よりもはるかに安定した社会になるはずだと予想できるのである。

 このような考えは、「理想主義」にすぎないと感じるかもしれない。しかし過去230年のアメリカの歴史について考えてみよう。そうすれば、これが単なる「理想主義」ではないことが理解できるはずである。

 この間、武力の圧倒的な割合はアメリカの国軍や州兵、さらにFBIを中心とする国家的に統一された警察機構によって保持されてきた。純粋な民間人の持つ銃器などは、アメリカ軍の圧倒的な戦闘力に比べれば比較の対象にもならない。

 しかし、過去2世紀以上にわたって、アメリカ軍がクーデタを起こそうとしたという事件は存在しないし、今後も起こらないだろう。それはひとえに、アメリカ軍の構成員はアメリカ人であり、民主主義政府の価値と、独裁政治・全体主義政治への嫌悪感や侮蔑を深く共有しているためである。つまり、構成員の価値観は観念のものでしかなくても、武力を行使するのはそういった価値観を持つ人間なのであり、結果、価値観は武力の使われ方を決定しているのである。

 同じことは、現在の先進諸国においてはほとんど共通している。100年以上もの間、ヨーロッパやアジアでも繁栄を続ける社会では、その基盤となっている資本主義と政治制度である民主主義への大衆レヴェルでの帰依は、明らかに深まり続けている。おそらく中国とヴェトナムだけがその例外かもしれないが、これが政治思想の歴史的現実なのである。

 この議論は、警備会社の存在する無政府主義にまで及ぶ。

 無政府の社会が、政治制度を持つ社会に比べて物質的に圧倒的に豊かであり、文化的にも圧倒的な影響力を行使し続けるとしよう。無政府の社会で暮らす人びとは、無政府社会は強制力をともなう政府を持つ社会より優れていると確信し、強制的な政府をもつ社会への軽蔑や嫌悪を共有するようになるはずである。ちょうど、20世紀後半からのアメリカが民主主義を基調として繁栄した結果、現代の主流の思想家や大衆は、民主主義と資本主義の混合体制が守られるべき価値だと感じている。この民主主義に代わって、無政府主義が支持される、それが無政府主義の涅槃なのである。そこでは、警備会社の経営者も従業員もその一般理念を共有しているため、独裁的な政府となる野望をもつことはない[12]

 

 



[1]  『自由の構造』 p.260

[2]  ここでは犯罪者の能力、処罰確率は一定であるとしているが、現実には同じ捜査量を前提としても、より優秀で処罰されにくい犯罪者と、すぐにつかまってしまう犯罪者がいる。この違いを含んだ議論については、付論1を参照してもらいたい。

[3]  付論1では、代表的な量刑論を応報感情、一般予防の観点からまとめてある。

[4]  『メカニズム』p.155 翻訳は異なるが、ここでは私の理解による訳出をしている。

[5]  Maynard-Smith and Price ,1973

[6]  左翼という政治概念をこれほどに簡単に取り扱うことには、ばかげた単純化だという批判もあるだろう。明らかに、我々の何らかの脳神経構造がそういった社会的な認識を作り出すのか、あるいは認知心理的にわかりやすいから、そういった右翼・左翼の単純な二元論になるのかは今後の心理学、政治学の大きな課題である。ここでの左翼の本質論は議論のためのものでもあるが、これについて動物の権利擁護で著名な哲学者ピーター・シンガーは以下のように書いている。「弱者や貧者、虐げられ搾取されている人々、あるいは単に低いレヴェルの生活でさえ維持できない人々がいて、しかも彼らの苦しみが本来味わなくても済むようなものだとする。そのときそれらの苦しみを目の当たりにし、肩をすくめ、どうしようもないね、お手上げだという顔をしているとしたら、それは左派とは言わない。所詮、それが世の中というものさ、いつだってそうさ、我々にできることなんてないねというのであれば、それは左派とは言わない。左派はこういう状況に対して何とかしてあげたいと思うのだ。」(シンガー2003p.17

[7]  生育環境に比べ、遺伝的な差異が知能、性格の大部分を決定していることは、離れて育てられた一卵性双生児の比較研究から明らかである。これについてのサーベイとしてはDavid Rowe “The Limits of Family Influences: Gens, Experience, and Behavior” (1993) や、Judith R. Harris “The Nurture Assumption: Why Children Turn Out the Way They Do” (1999)がまとまっていて、アメリカでもよく読まれている。

[8]  政治的な信条が遺伝するのかどうかについては、アイゼンク以来の半世紀にわたる研究があるが、ここでいうような右派左派といった政治的な視点について肯定された研究はないようである。なお、内向性・外向性その他の代表的な人間心理が頻度依存的な行動戦略としての基盤を持つことは進化心理学でも肯定されている(ex. Buss 1991, Wilson 1994)

[9]  この点に関しても、左派は社会学者に多く、刑罰は抑止効果がなく、犯人であっても人権は尊重されねばならないと主張するのに対し、右派は経済学者に多く、重い刑罰には統計上明らかな抑止効果があり、人権は他の利益、たとえば真の犯罪者の逮捕処罰確率との兼ね合いでのみ尊重に値すると考える傾向がある。

[10] このような会社組織は相互扶助を理念とするため、相互会社と呼ばれ、日本では生命保険会社に存在してきた。そこでは保険の加入者は、法律的には会社員であるとされ、株式会社のようにたんなる顧客とは異なるとされている。この制度は理念は理解できるものの、現実には会社が巨大になっている反面、加入者が会社経営を監督することは現実的ではないため、企業統治の効率の悪さを生みだしている。しかし、警備会社は保険よりも高い「政治性」をもつため、そのような理念や参加の権能を重視して契約をする個人もいるかもしれない。あるいはこのような組織制度が機能する可能性もあるかもしれない。

[11] 『自由のためのメカニズム』 p.154

[12] バーネット『自由の構造』14章では、民営化された司法と警察の社会が寓話的に描かれ、そこで起こる独裁への企てが人々によって阻止される様子を小説風に描いている。ここでも、最終的には人々が独裁を企てるような会社を支援しなくなるという、社会的に支配的な思想こそが重要なものであることが描写されている。