3、前提2:自由主義の経済効率性

 本書の第2の前提は、自由主義的な経済は計画的、集権的な経済活動よりもかならず経済効率の点で優れているというものである。私は以下に、イギリスにおいて産業革命と期を同じくして自由権が確立し、それは経済的に最も効率的であったこと、そして、その後の社会主義計画経済が失敗に終わったことと、その理由についても簡単に説明する。

 次いで、無政府社会を目指すにあたり、なぜ分配的な正義よりも経済効率のほうが重要だと考えるのかの理由を述べる。ついで、現在までになされてきた無政府資本主義の基本的な特徴を説明する。

 さて、経済学はアダム・スミスを始祖と仰ぐ社会科学であり、その学統は18世紀に遡る。それはダーウィンの進化論に1世紀程度先んじており、私が1章で述べた基準からすれば、真剣に考慮するには値しないはずである。しかし、スミス以来の経済学の伝統は、人間活動の前提を、概ね個人的な利己性に置いており、それはたまたま進化論的な前提と一致する。そのため、本章は経済学の伝統の解説に当てることが正当化されよう。

 スミスは1776年の『国富論』において、利己的な諸個人の活動が「神の見えざる手」によって、調和的な生産社会に昇華することを説得的に論じた。それ以降、経済学者はこの命題を数学的に精緻化し、現在の一般均衡理論と呼ばれる経済学体系にいたっている。

 前章で仮定したように、たしかに人間は概ね利己的に行動するが、ネポティズムやさらにもっと純粋に利他的な行動も行う。よってこの点は厳密にいうなら、現代経済学の主流であるミクロ理論とはかならずしも完全には一致していないことを認めなければならない。我々は、たとえば国防の私的な供給の問題において、この点に立ち返るだろう。

 

夜警国家観の成立とレッセ・フェール

 現代世界における政府とは、国民の面倒を逐一みるような存在である。そして、そのことが当然に期待されてもいるのが一般的である。これは20世紀において、広まった国家観であり、福祉国家観、あるいは社会国家観とも呼ばれる。そこでの国家とは、国民をパターナリスティック(後見主義的)に見守るような、よき家父長としての父親のイメージがもたれているのである。

 19世紀に支配的であった国家観はこれとは異なり、夜警国家観であったといっていいだろう。この言葉は、国家活動は夜に見回りをするような警察に限られるという、後世の社会国家主義者からの侮蔑によって命名されたものだが、十分にその本質を言い当てている。

 18世紀以降の天賦人権の考えによって、国家の干渉からの自由権が確立する。自由権の限界を画する理論として有名なのは、ジョン・ステュアート・ミルによる1859年の著作『自由論』のなかで表明された、いわゆる「加害原理(harm principle)」である。この加害原理とは、「相手の自由権への侵害とならない限りは、個人の行動は自由とされ、許されるべきだ」というものである。この視点から現在に続く論争としては、売春や麻薬、その他の犯罪の合法化を許すかどうかということである。

 また、経済学においても、アダム・スミスが分業の利益を説き、さらにディヴィド・リカードが比較優位説によって国際貿易の有用性をモデル化して証明したことによって、古典派経済学は完成した。ここに、自由放任政策によって経済的な繁栄が達成されることが了解されたのである。

 人権思想における自由権の確立と、経済政策における自由放任原理とがあいまって、国家のなすべきことについては、きわめて限定的に考えられるようになった。国家活動は、治安の維持のための警察活動、私人間に発生する問題を解決するための裁判機能、そして外交と国防に限られると考えられるようになったのである。

 この視点からは、国際貿易も互恵的かつ自発的な行為である以上は、積極的に奨励されるべきだということになる。これは当時、より進んだ経済段階にあったイギリスに有利であるように感じられたため、後進国家であったドイツでは、経済発展の歴史的過程を重視するフリードリッヒ・リストなどの歴史学派が自由貿易反対の論陣を張ったのである。

 たしかに、長期にわたる技術の発達は、予備的な開発期間や周辺の科学技術の発展など、多くの要因に左右される。すでに有利な立場にあったイギリスに比べて、多くの産業が遅れていた18世紀のドイツ人は、イギリスと自由貿易をすれば、国内の産業の育成にダメージを受けると考えたのである。いうまでもなく、これは自民族中心主義的、愛国主義的、あるいは国民国家的な考えであった。

 しかし、これは誤りである。比較生産費の仮説は、貿易をする国はどのような状態であっても、両国ともに利益を得るというのが、その結論である。また現実にも、保護主義的な産業の育成が成功している例はほとんどない。

 よって、本書の第2の仮定は、自由主義は物質的に繁栄する社会を可能とするというものである。自由は各人の営業の自由を当然に含み、それによって我われは効率的で豊かな社会を享受することができるのである。

 

市場制度の効率性

 通常は主流派の経済学においても、こういった効率的な自由主義経済を支えるのは、政府セクターの提供する法制度が整っているからだとされるのが普通である。つまり、経済社会の発展の前提には、交換するべき財産権の定義であったり、契約の履行の強制力の存在であったり、というような政府のつくりだすインフラストラクチャーが必要だというのである。私は経済学を長らく専攻してきたが、ほとんどの経済学者はこれを疑問視することなく、完全に前提視している。よって、レッセ・フェールの原則を支持するという場合、警察・司法・国防については国家がなすべきだということになるのである。

 しかし、本質的な機能論として、インフラストラクチャーの構築に限っては政府セクターが行うべきだという必然性はまったく存在しない。

 法制度が確立した後に、人間社会が私的な活動によってより豊かな状態になるのであれば、法制度自体も私的な方法によって確立されるほうがよいと考えるのが、むしろ自然である。1章で述べたように、人間はすべて原則的に利己的なのである。この考えからすれば、警察・司法・国防に従事する人びとに関しても例外ではないだろう。それらを担当している組織が市場での競合者からの競争から守られる限り、彼らの作り出す制度は非効率的なものになっていると考えることには十分な理由がある。なぜ、警察・司法・国防も民間企業に任せないのだろうか?前述したように、我われの利己的な精神は、市場を通じてのみ互恵的な性質を帯びた利他行動へと転換することが可能となるのである。

 これはアダム・スミスの時代から、一貫して経済学者が共有してきた認識である。肉屋はたしかに利己的なのだろう。しかし、その肉屋の利己性が、明日もまた肉屋で我われが肉を買うことを可能にしているのである。我われは肉屋に対して、応分の対価を支払うことによって肉を買い、彼の利己性は我われの利己性と調和的で効率的な社会秩序を構成する。

 なぜ、国家の本質的な作用だからといって、警察・司法・国防のみがこの原則から外れるべきだと考えるのだろうか?私はこの考えが理解できない。重要なものであればあるほど、相互の利己心の調和のために市場での解決が必要となるはずである。

 つまり、それは本書にいう無政府資本主義の社会に他ならない。

 大きく話を変えると、かつての社会主義者が指摘したように、我われのもつ潜在的な技術力と、一人一人の嗜好についての情報を中央集権的に集めて、それを処理することも抽象理論としては可能かもしれない。この場合、各人が何を行うかも、何を受け取るのかも中央の計画局によって決定されることになる。

 ア・プリオリに考えるなら、このような計画経済が分権的な資本主義経済よりも生産性が低く、人びとの消費生活は貧しくなるということは、必ずしも自明ではない。おそらく、どのような理論を構築しても、集産的な方法を好む人たちは納得しないだろう。しかし、ここでは簡単に、その実例と理論を指摘しよう。

 

計画経済の貧困

 1945年に第二次世界大戦が終わると、社会主義のソヴィエトと資本主義のアメリカによって二つの国民が分断され、合計4つの国家が誕生した。東西ドイツと南北朝鮮である。実験の不可能な社会科学においては、もっとも実験というものに近い状態が実現したのである。

 1990年までに東ドイツは崩壊し、西ドイツに吸収されたが、東西ドイツの鉄条網をくぐろうとして射殺されたのはもっぱら東ドイツの人びとであった。物質的にも西ドイツは圧倒的に裕福であり、表現の自由、その他の我われが人権だと感じるものは西ドイツには実在したが、東ドイツではホーネッカーによる独裁が続き、人びとは共産主義エリートによって完全に支配される以外の道はなかったのである。

 それを極限的に再現しているのが、現在の北朝鮮である。人びとは冬季には凍死や餓死の危機に瀕し、世界でもっとも平均寿命が短い状態にある。朝鮮労働党が人民を独裁的に統治し、表現の自由から言論の自由まで、あらゆる人権が無視されている。北朝鮮の亡命者は、言語も同じでありながら経済的に豊かな韓国、あるいはアメリカでの暮らしを望んでいる。

 一方、朝鮮戦争直後はむしろ後発国であった韓国は、現在先進国の仲間入りをしている。韓国産の携帯電話や自動車の世界的な評価は高まり、物質的な豊かさはOECDの加盟にふさわしいものとなった。長年続いた軍部の独裁は、現在までに民主的に選ばれる大統領制に変化し、表現や経済活動の自由も保障されるようになった。

 同じ背景を持つ、二つの民族による2度にわたる実験が、単なる偶然の一致なのだろうか。いや、社会主義的計画経済は必然的に物質的な貧困と、精神的な独裁をうみだすのである。近年の躍進著しい中国やインドを見ても、このことははっきりとしている。中国では1976年に文化大革命が終わり、改革開放の時代を迎えた。それ以降の中国の政策とはつまり、資本主義の再導入だったのである。同じようにソヴィエトの崩壊を受けて、1991年にはインドもまた社会主義的な計画経済を放棄し、現在の飛躍的な経済発展を実現している。

 ハイエクは1943年の著書『隷従への道』において、計画経済では何がどれだけ作られるのかの決定において、かならず権力を握る一群の人間たちが出現することになり、言論や表現の自由、職業選択の自由といった多様な人権は、すべて彼らによって奪われることになるのだと主張した。

 このような理解によれば、たしかに計画経済が人々の人権、とくに自由というものを踏みにじる傾向があるということは必然的になるだろう。とはいえ、自由の減少は少なくとも直接的には、計画経済の生産性の低さと消費生活の貧困を意味するわけではない。事実、1960年代のソヴィエトは粗鋼生産などの成長率ではアメリカを上回っていた。問題が単純であれば、あるいは計画経済は、強制力を行使できる分だけ、市場経済よりも高速で生産を拡張できるのだろう。

 しかし、一般的な計画経済の物質的な貧困には、少なくとも4つの主要な理由がある。

 まず第1のものは、経済学でも長らく論争されてきた「計算可能性」の問題である。あるいは「情報収集可能性」の問題といってもいいかもしれない。社会全体という規模で、何をどれだけ投入して、何をつくるべきなのかを計算することは現実にはできない。私や読者をはじめ、国民の一人一人が何をどの程度欲しているのか、これは消費財の数が数百万にも及ぶ現代経済では、およそすべての関連する情報を集めることは不可能である。あるいはそれを試みようとしても、重要な情報のほぼすべてが当局に届く途中で消失してしまう。

 同じように、誰がどれだけのものを使って、何を作るのかを決定するには、あらゆる技術に通じた計画局が必要だが、そのようなものは存在しない。ほとんどの生産技術は、企業内の集団や我われのような個人の持つ、まったく分散的・個人的な知識だからである。かくして計算問題は、現代社会において生産される商品の種類の爆発的な拡大によって不可能になってしまう。

 第2の理由は、インセンティヴの問題である。我われの労働力とは、物質のようにそこに実在するようなものではない。それは、我われの意思によって体や頭脳を使用して、何か社会的に有益なものを作り出すことをいうのである。だが、私が「本当は」どれだけの能力を持っており、「真に」作り出せるものはどれだけなのかは、私にしかわからない。いや、私自身にもはっきりとはわからないかもしれない。さらに重要なのは、私の労働力の供給なり、密度なりは、その対価によって変化するだろうということである。

 通常、人が働くのはそれに応じた対価を得るためだろう。計画経済では、我われの労働に対するインセンティヴについて「社会主義建設のため」とか、「社会全体のため」というような抽象的な目標を掲げていたが、そういった建前やプロパガンダだけでは長期間の人間の真摯な努力を引き出すことはできない。

 第3の理由は、政府というものが、必ずしも国民の利益を第一に優先して活動する組織ではないということである。国家は政府組織を構成する人間によって運営され、彼らには彼らの独自の目的がある。結果として、政府は非効率的な生産を実行し、国民の消費財生産は後回しにされることになる。

 この一見したところ、明らかな事実は今になって考えると不思議だといえよう。すでにホッブズが17世紀の時点で、国家は絶対的な権力を持つ怪物リヴァイアサンであるとまで記述しているのである。これを踏まえれば、計画経済を行うような絶対的な政府の内包する危険性は、ハイエク以前のはるか昔から指摘されていたことになるだろう。ここでも、ルソーやロックのような啓蒙哲学者の影響で、人間の内的な心性はタブラ・ラサとして無限に可塑的であり、教育によって「人びとのため」に献身的に働く役人を造りだすことができると考えられたのである。

 最後の理由は、知識についての哲学に関するものである。それは、未来において作り出すことのできる商品やサービス、生産組織など、社会において次つぎに生まれてくる新しい技術は、現在のところは知られていないということである。今よりも新しいものを創造するためには、人間精神の自由と、それに従った分権的な資源の活用が必要だということである。

 資本主義においては、サイエントロジーやオウム真理教などの宗教的な方法を含めて、あらゆる新技術の可能性が、その方法を信じるものの資源を使って試される可能性がある。何かに資源を投じようという人間は、通常その方法をもっとも強く信じていて、その発展によって報われるような人間であるだろう。実際、産業革命以後の資本主義、つまり分権的な資源の活用は、思想の自由とあいまって爆発的な科学の発展と福利を人類にもたらしてきた。

 国家当局が、発光ダイオードは蛍光灯に永遠に取って代わることはないというなら、発光ダイオードの研究には、国家の資源はまわされないだろう。電気自動車は内燃機関の自動車に劣ると当局が判断すれば、電気自動車の研究開発には予算がつかないだろう。

 もちろん原理的には、計画当局がある特定の科学や技術に見込みがあると信じれば、そういった技術に対して不確かな資源しか確保しない資本主義以上に、多くの資源が投入され、結果的にはるかに全体の生産性は上昇するということはあるかもしれない。

 だが、こういったことは歴史上に起こったことがない。そこには理由があるのだろう。それは上述の第2の理由として掲げた、政府セクターには個人的インセンティヴがないことである。技術者の多くは、普通の人間なのであり、彼は自分の評価につながらないような努力をしようとはしない。また第3の理由をみてみよう。抽象論ではない、一人一人の国家官僚には、国家的な生産性の伸びや、見果てぬ未来の科学技術の発展などよりも重要な、個人的な利益があると考えるのが自然である。それは、国家官僚組織の階層を登るというゲームなのである。組織階層を登ることと、将来性のある技術への投資が一致すればよいだろうが、どうやらそれは経験主義的にはほとんど起こらないようである。

 

市場主義は民主主義とは異なる

 市場では数多くの売り手と買い手が交渉を行い、その両者に対して満足を与えるような取引が合意され、実現する。この過程においては、あるいは、ある買い手は買うことができないかもしれないし、ある売り手は売ることができないかもしれない。明らかに、結果の平等が実現される保証はどこにもない。

 これに対して、政治的な民主主義は原則として一人が一票の投票権を持ち、それに応じて政治に影響を与えることができる。この点だけを取り出してみるなら、明らかに国家への積極的な参政権に基づく政治的な人権は、ある意味で平等であると考えられるだろう。その後の当選した議員の一人一人へのロビー活動によって、現実には有権者の考えるようにはならないかもしれないが、とりあえずは市場での取引よりは平等であるように思われる。

 無政府資本主義を標榜するということは、治安や司法、国防までも市場にゆだねることを意味している。その際、多くの人びとは、こういった市場制度のもつ不平等、あるいは「金持ちびいき」について憂慮するのである。警察が民間企業であれば、金持ちしか守らないのではないだろうか?司法が民間企業なら、金持ちが優遇され、有利な判決を受け取るのではないか?などなどの疑問は無限に湧き上がってくる。

 よく言われることだが、この結論はある意味では正しく、ある意味では誤っている。それは金持ちのもつお金と貧乏人のもつお金に区別はないからである。警察について考えてみよう。金持ちは平均的には、より多くの金額を警備企業との契約に出費するだろうが、金持ちと同じ契約を結ぶ貧乏人は、その金持ちと同等のサービスを受けることができる。

 これに対して、現行の国家によって運営される警察では、建前上はみなが同じサービスを受けることになっている。しかし、実際には大物政治家からの口利きに代表されるような、多様な形でのコネが存在し、また社会階層に応じた差別的な取り扱いも横行している。だが、庶民はそれに文句をいうことはできない。警察は圧倒的な一元的物理力を保持しているのであり、まさに国家権力そのものだからである。

 別の角度から考えてみよう。私は大学に勤めているため、普通のサラリーマンだといえるだろうが、ここで、たまたま家族への犯罪の被害に対してたいへんな恐れを抱いているとしよう。私はどの警察を選ぶかの選択肢をもたないため、あとは個別に民間の警備会社と追加的な警備を契約するしかないが、現実にはそれだけの収入もない。実際に、現在の日本で警備会社と契約しているのは、ほとんどが高い収入を得ている人びとだからである。中間的な所得層は、契約ではなく、政治活動を通じて自己の意見を表明するしかない。

 これは私立学校に子どもを入れるほどには余裕がないが、公立学校には不満を感じるという状況と同じである。公立の小学校、中学校には選択の自由がないため、よりよい公立学校へ転向することはできない。転校の自由は、私立を選ぶことのできる高所得者層にのみ許されているのである。

 このアナロジーからは、なぜ私が警察や司法をも民間企業化するべきなのかが理解されるだろう。子を持つ親として、明らかに教育は重要である。あまりにも重要であるため、国家によって独占させるわけにはゆかないのだ。同じように、警察活動は重要である。公正な司法もまた市民社会には不可欠である。だからこそ政治による多数決、多数者による決定の少数者への押し付けなどという非効率で不正な過程を通すべきでなく、すべてを自発的な契約によるものに変更する、つまり警察を民間企業にする必要があるのである。

 

市場の効率性は功利主義とも違う

 最後に、このような国家機能の中枢機関の解体、あるいは民営化について、イギリスの哲学者ベンサムの提唱した功利主義の立場から考えてみよう。

 功利主義の目標とは、すなわち「最大多数の最大幸福」であるといわれる。国民個々人の幸福度を総和して、それを最大化するというものである。そして、それは個人の貧富にかかわらず、その幸福度を単純に加算するということを意味している。おそらく、この考え方によると、貧しい個人の1円は裕福な個人の1円よりも価値が大きいことになるだろう。なぜなら、経済学者が限界効用の逓減と呼ぶ現象、つまり個人が感じる物の価値はその物が多くなればなるほど低下する、という事実が存在するからである。貧しい個人に1円を与えるほうが、裕福な個人に1円を与えるよりも、幸福度の上昇は大きい。これは常識的なことであり、我われが金のない人、不幸な人には寄付をしても、決して金持ちには寄付をしない理由である。

 これに対して、市場による効率の最大化とは、経済学でいうところのヒックス・カルドア基準と呼ばれるものである。あるいは、アメリカの法学者リチャード・ポズナーのいう「富の最大化」を意味するといってもいいだろう。効率は市場における交換によって発生する、消費者と生産者の余剰を総計したものによって測られる。市場での競争的な活動においてある者が得をし、別の者が取引をし損ねて損をした場合にも、得が損を上回る限り、そして実際に損失が利得によって補償されなくとも、そのような活動を望ましいとするのである。

 いうまでもなく、このような基準では、豊かな者のもつ1円は、貧しい者のもつ1円と同じ貨幣価値をもつことになる。どちらの1円も社会的な価値が等しいというのである。これには、平等主義者のみならず、功利主義者も抵抗を感じるだろう。

 それでも、私がこの市場による「富の最大化」が是認されるべきだと考える理由を、以下に3つあげたい。

 1つ目は、今風の流行の言葉で表現するならば、富者が金持ちになれば貧者にもその富が流れ落ちてくる(trickle down)というものである。富者が金持ちになるということは、ほとんどの場合、経済全体の生産効率も上昇しており、最終的には貧しい人びとにもその恩恵がもたらされるという。これは厳密な歴史的な事実としては間違いなく真実であろうが、私がとくに強調したい理由付けではない。

 2つ目の理由は、効率が最大化されて得をするのは富者でもあるが、同時に貧者でもあるというものである。たとえば、日本のコメには高率の関税がかけられているが、これがWTOの勧告によって廃止したとしよう。明らかにコメを作っている農家は打撃を受け、コメを作っていない都会の消費者は大きな利得を得ることになる。農家には裕福な家も貧しい家もあるだろうし、都市部の消費者にいたっては農家よりもはるかに貧富の格差が激しいだろう。

 コメ関税の廃止は非常に多くの農家に負担を強いるが、さらに多くの、おそらくは平均的な農家以上に貧しい都会の消費者に利益をもたらすことになる。ほとんどの規制の廃止において、損失をうけるのが貧者であり、得をするのが富者であると考える必然性など存在しない。大きく複雑な社会では、規制その他の社会制度の影響は結局富者にも貧者にも同じ程度であると考えるのが自然だろう。とするなら、金銭的な効率化のもたらす効用の社会における変化を総和すれば、プラスになるはずである。

 ちなみに医療関係の規制のほとんどすべては、医師や製薬会社といった富者が、患者という貧者の負担において潤うというものである。タロックやブキャナンが明らかにしたように、政治とはそれ自体が特殊な市場であって、富者のほうが政治的な決定に対して影響力をより強く行使できることがほとんどだからである[1]

 最後の、私がもっとも重要だと考える理由は、我われの社会では1世代内においても貧富の格差がそれなりに流動的であり、さらには世代を経るならば、十分な程度に流動的であるということである。今日の貧者である苦学生は後に社会的な成功や蓄財を経て、未来には裕福な家庭を築くかもしれない。あるいは、その子どもたちが、さらなる未来の富者となっている可能性は十分に高い。

 ビル・ゲイツにしてもタイガー・ウッズにしても、松下幸之助にしても本田宗一郎にしても、とりたてて豊かな家に生まれついたわけではない。本書で目標としているのは無政府社会であり、その社会に暮らす人びとは我われの一世代に限られるものではない。今現在の貧者への1円と富者への1円を区別するような強い理由は見当たらない。それらは未来の多数の世代を通じて、同じように社会の中において評価されるだろう。そして、世界の人びとが移民してまで住みたい国や社会とは、そのような長い時間のなかで形成され、評価されるもののはずである。

 さて、市場主義が人びとの最大限の努力を引き出し、結果的には我々や次世代の生活がより快適なものになるというのが、私の市場礼賛論である。しかし哲学的に考えれば、これにも例外がないわけではない。

 貧しい男がいて家族を養うことができなくなったとしよう。富豪が彼に2分の1の確率でルーレットを回し、結果がyesであれば、富豪は彼を銃殺する。noであれば、彼は助かり1億円を手に家族の下に帰ることができる。このような契約は許されるのだろうか[2]

 ここでは、当事者は明らかに合意をしている。市場原理主義、あるいは自己所有権に基づく自己の身体の処分の自由の絶対性からすれば、そのような契約は肯定されるべきだと思われる。とはいえ、このような契約は我々のもつ平等的な人道主義、人権感覚に明らかに極度に反している。

 後述するが、無政府の警備会社はすべての契約を保護することはないだろう。むろん、基本的には個人の自由は極限まで尊重され、麻薬類のほとんどすべては自由化されるに違いない。しかし、他者加害をもたらさない行為の、すべてが肯定されるわけではないだろう。

 各警備会社は我われの人道感覚に応じて、非難や賞賛を浴びるような存在になる。圧倒的に多数の警備会社とその契約者たちが、上述の殺人契約が無効であり自分たちの資源を投入してまでも禁止されるべき必要があると考えるなら、それはやはり禁圧されるだろう。殺人契約はこの種の契約の自由の限界事例の一つであり、あるいは禁止されることになるかもしれない。この意味でロスバード主義的な究極のリバタリアンには残念なことかもしれないが、完全な自由が無政府社会の法とは一致しないこともあると考えられよう。

 

無政府主義の現在位置:警察と司法の民営化

 17世紀スコットランドの哲学者ジョン・ロックは、各人があるものに対して所有権を持つのは、そのものを自分の力によって自然物から作り出したり、有用なものへと改良したりした場合であると考えた。これは「ものへの労働の混入」と呼ばれ、確かに直感的にも、その結果として作り出されたものに対する所有権を肯定するのに十分な論理であると感じられる。これはロックの所有権論と呼ばれるが、この論理をつきつめると、所得という個人の所有物を社会的に税などの形で取り上げるということは、非道徳的であり、許されないことになる。

 この考えはアメリカの哲学者であったノージックが依拠した立場である。彼は1974年の著書『アナーキー、国家、ユートピア』において、治安維持のための警察機構以外の国家活動は自然権を侵すものとして許されないとした。彼がかろうじて肯定した最小限度の国家は、リバタリアニズムの文脈では「最少国家(minimal state)」と呼ばれる。

 ロスバードもまた、この所有権論に基づいて無政府主義を強力に展開した。ロスバードによれば、政府活動はすべからく個人の意思に反する強制を伴っている以上、すべてが許されないものであると主張したのである。この立場から、身体への所有権と、その労働の結果として生じる成果に対する、絶対的な処分権・所有権の自由を肯定する立場は、権利基底的なリバタリアニズムと呼ばれる。

 権利基底的なリバタリアンによると、政府は各人が人権として持っている財産権を租税の形で強制的に取り上げるという点において、すでに非道徳的な存在だということになる。これに加えて、兵役や陪審制度などへの強制参加もまた、国家の持つ人身の自由への侵害、すなわち自己所有権を侵害しているものであり、違法であると考えられる。

 また、国家という組織だけが持つ特権も問題となる。典型的な例として、現代の日本では、警察が私を誤認逮捕したとしても、事後的にみて、正当な理由があったと判断されれば民事賠償を逃れることになっている。そして私は、一般的な民事賠償に代えて、ほとんど名目的でしかない国家賠償法の規定によってわずかな金銭を得ることができるのみである。この点においても現存の国家は、私人の権利を蹂躙する特権を有しているといえ、この意味で許されざる存在だろう。

 また経済効率を考えるという帰結主義的な視点から見ても、現在の警察組織が非効率的であり、本来半額の費用でできることを組織的な浪費のために無駄な費用をかけて、非効率的に行っていることも間違いない。これは明らかに我われの社会の有限かつ有用な資源の無駄遣いである。この理由からも警察は民営化されねばならない。

 このような純粋な経済学的な視点から、1849年にはすでにフランスのグスタフ・ド・モリナリが『警備活動の生産(De la production de la securite)』という題名で、警察の民営化を訴えている。これが160年も前の著作であることを考えると、現在まで警察が国家独占であり続けていることは不思議な気がするほどである[3]

 

 かりに政治経済においてよく確立した真実があるとするなら、それは以下のようなものである。

 すべての場合において、消費者の物質的・非物質的なニーズを満たすために役立つすべての財については、労働と貿易を自由にすることが消費者の最善の利益にかなっている。なぜなら、労働と貿易の自由はその必然的な結果として、価格を最大限に下げるからである。

 そしてまた、どのような財であれ、消費者の利益は生産者の利益に優先される。

 今、この原理を追及するために、次のような厳密な結論に到達する。

 警備活動の生産は、この非物質的な財の消費者の利益にかなうように、自由競争の法則の支配下におかれねばならない。

 そうすると、次のような結論が続くことになる。政府は、別の政府が競争に入ろうとするのを妨げたり、警備活動の消費者に財を自分たちだけから購入することを要求したりしてはならない。

 もし仮にこれが真実でないとするなら、経済科学の存立する原理は誤りだということになる。[4]

 

すでに19世紀の中ごろ、政府の独占市場のもつ弊害はあらゆる商品について明らかだったのである。よって、モリナリは、警察は民営化されるべきであり、そうでない場合についても現代社会の告発そのままに

 

 もし、その反対に、消費者が警備活動をどこからでも好きなところから購入する自由がなければ、その結果は、職務の多くは恣意性と非効率の経営にさらされることになるだろう。正義は、時間がかかり、高くつくものになり、警察権は濫用され、個人の自由は尊重されなくなり、警備の値段は乱用的に高騰して、あれやこれやの消費者集団の持つ権力や影響力に応じて不平等に分配されることになる。[5]

 

と書いている。この160年前に書かれたこのエッセイ、ならびに同年に出版された書籍『サン・ラザレ通りの夜会(Les Soirees de la Rue Saint-Lazare)』では、近所のスーパーマーケットが独占権を与えられた場合と、警察による独占とを比較している。モリナリは当時すでに、国家の運営による独占化された警察と司法の問題点を詳細に指摘していたのである。

 これと同じように、裁判所の民営化も当然のことだと考えられる。それは、現在のような国家権力に裏打ちされた裁判所が、いくつかの仲裁機関となって民営化されることであり、あるいは仲裁会社の自由な参入が認められることを意味する。

 裁判所が民営化されれば、人心に逆らって独善に走った法解釈をしても職業を保障されるという、現在のような特権階級としての裁判官はすべて存在しなくなる。よって、権利基底的な論理から考えても、民間の会社のほうが市場原理による独善への矯正の可能性が存在し、正確な知識と論理、正義感に訴える必要があるのである。

 世界中の裁判所で、判例はますます法律家の専門用語と、固有の奇妙な論理にあふれ、通常人の理解が不可能なものへと変化してきている。この原因は、彼ら裁判官が司法権という国家権力の一端を完全に支配していることに起因している。「解読」しなければ理解不可能な判例は、仲裁会社同士の競争においてはマイナスの要素となるだろう。仲裁会社の顧客が警備会社であれ、あるいは、もっと直接的に個人契約者であれ、現在のように単に意味不明の「判例論理」は人びとから支持されないため、衒学主義であるとして拒否され、結果として司法ははるかに人びとの価値観に対して開かれたものにならざるを得ない。

 また、警察の警備保障会社化とまったく同じような社会効率の改善もある。そこでは正義にかなうだけでなく、遅すぎると考えられる仲裁活動がなされれば、そのような企業は廃業を余儀なくされるからである。無意味な手続き的法廷活動や書類の複雑さ、実質的には飾りとしてしか意味のない法服などは姿を消して、我われははるかに迅速で安価な仲裁を受けることが可能になる。そして、同じ法体系を適応するために存在する複数の仲裁機関というのは、仲裁活動の公正さや効率性、それらに加えて法を解釈するというレヴェルでの競争があるということを意味する。

 とここまでは、多くのSF作家も理解してくれるものだと思われる。無政府社会における同一の法律を基準に、複数の仲裁会社がその解釈を行うのである。さらにロスバードは上訴のシステムについて、以下のような発案をしている[6]

 

「明らかに、どのような社会においても法手続きは無限に続けるわけにはゆかない、つまりどこかで終止符が打たれる必要があるのだ。政府が司法を独占する現在の国家主義的な社会では、

最高裁判所が恣意的にその役目を果たすことになっている。リバタリアンな社会でも、合意された最終裁判所が必要であるが、どのような紛争や犯罪にも、原告と被告という二当事者がいるため、最初に二つの裁判によって到達された結論が既判力を持つと条文化されるのがもっとも賢明であるように感じる。このことは原告と被告の二つの裁判所が同じ結論に達した場合も含んでいるし、あるいはこれらの二つの裁判の結論の違いを上訴裁判所が審理する場合も含まれるのである。」

 

 私もまた、このような上訴手続には、納得できるものがあると感じられる。しかし、この法制度は、そもそも社会における法律が一元的であることに基づいている。しかし、私は第7章で詳しく説明するように、法は一元的である状態から、多元的な法の並存へと進化してゆくと考える。法体系の多元化は、異なった仲裁会社の準拠する法が、それぞれに異なっていることを意味する。そして各仲裁会社には、多様な正義感を持つ人びとの感じる正義、違った価値観の効率的な妥協点の実現という需要に応えるために、人びとにとっての正義の法を探しだし、実践しようとするインセンティヴがはたらくことになる。その結果、無政府社会での法体系は一元的ではなくなり、中世ヨーロッパの法体系が、地域的に限定された慣習法と、国際的に確立していった商法、また教会法とが並存していたのに似たような、「多元的な正義」という、直感的にはやや理解しがたいものになるだろう。

 さて、このような無政府社会の警察・司法制度の持つ利点と弱点について、次章以降でより詳しく考えてゆくことにしよう。この章の後半では、国家がない社会では私有財産制度のカバーする範囲が広がることになるが、そのいくつかの例として、道路、河川、電波、公害、について考えてみたい。

 

道路の民営化

 道路の民営化は古くからあるアイデアだが、GPSやグーグルマップなどのマッピングシステムや移動体通信が高度に発達した現在、よりいっそう現実味を帯びている。

 振り返ってみると、20世紀の後半にはほとんどの国において、信号のない有料の高速道路が建設された。その結果、高度な物流効率と人的な移動の可能性が実現して、大きな経済の利益を生み出したのである。現在、発展の著しい中国やインドでも、1950年代のアメリカのように高速道路網はたいへんな勢いで整備されている。

 現代の高速道路は国家が建設するのが普通だが、そうである必然性はない。大規模な物流のための高速道路は、19世紀初頭の産業革命時代のイギリスでも私的につくられたのである。当時は蒸気機関車が存在せず、公道は平坦ではなかったために、有料の高速道路(turnpike)が発達したのである。 

 現在では、日本でも高速道路のETCシステムが普及しているが、シンガポールなどでも自動車からの通信は実用化されている。このことからすれば、すべての道路を民営化して、自動車の走行については有料とすることは、自動車の初期購入費やガソリンやディーゼルなどの燃料費に比べても、大きなコストにはならないだろう。

 私有化された道路においては、現在よりも高い効率性が実現される。

 たとえば、都市における道路の慢性的な渋滞は、混雑時の道路利用料金を高めるだけで価格がインセンティヴになって、自動的に解消する。これは経済学でいうpeak load pricingだが、道路が政府の所有物である場合よりも、経済効率を考える私有財産制度の場合のほうが導入される可能性が格段にあがるだろう。現在でも高速道路公社は多様なロードプライシングを試しているが、それがすべての道路においてなされれば、自動車での移動効率は格段にあがるだろう。

 シンガポールのロードプライシングでは、時間的にも比較的柔軟に価格が変化するシステムをとっている。おそらく、無接触型のICタグが一般化すれば、民営化された道路会社は、もっとも収益が上がり、それなりに顧客満足度の高い課金方式をみつけるだろう。

 また、道路が私有であるということには、環境主義者にとって望ましい側面もある。鉄道はその線路の土地や維持費まですべてが私有財産だが、道路は税金によって作られて維持されている分だけ非効率的に利用されている。道路が私有財産となり、道路の維持管理費用が利用料金に反映されるなら、多くの人は相対的に高くなる自動車の利用を避けて、公共交通をより頻繁に利用するようになるだろう[7]

 また別の効率性の実現としては、行政による道路管理システムにおいて、もっとも非効率的な制度としての路上駐車の取り扱いがある。路上での駐車は道路の持つ流通機能への悪影響があるため、都市部の多くの場所では駐車が禁止されている。それを取り締まるために、警察や民間に委託された取締り会社の職員が大きなエネルギーを費やしているのである。しかし、これは道路が私有化されていれば、駐車時間への課金によって、今すぐにでも解決可能なのである。

 渋滞の発生原因となるような道路での駐車行為に対しては、道路会社が、時間当たりにして大きな駐車料金を、道路の通行料金とともに徴収するだろう。比較的にすいている道路では定額の料金が課されるかもしれないし、郊外などでは無料になるかもしれない。どのような料金体系になるのかは予測するのは困難だが、現在のように駐車違反を軽微な犯罪として扱いながら、場当たり的な取締りをするよりも、はるかに効率的な道路機能の維持ができることは間違いない。道路会社のインセンティヴが効率的な道路の実現であると同時に、利便性の高い道路の実現でもあるためである。これまでの社会システムでは道路は公共物であり、そのために駐車違反者という「フリーライダー」が得をするような状況になる。その反面、真に価値のある駐車行為までもが禁止されているのである[8]

 次に、防犯という側面から、道路の私有化について考えてみよう。一体、どれだけの頻度での街灯がのぞましいのか、また人通りの多い場所での防犯のための監視カメラの設定が望ましいのか、という問題についても、私有化された道路では、それらのコストとそれによって実現される利益が道路会社によって比較されることになる。つまり、道路というもっとも「公共的な」施設が私有化されていることによって、結果的には防犯にも事故の減少にもなる可能性が高いのである。

 もっとも、現在でも日本の警察はNシステムという、自動的に自動車のナンバーを読み取る監視カメラを主要道路に設置している。これに対しては、国会の議決も通っていないプライヴァシーの一方的な侵害であるというような否定論がある。私はこの考えに基本的に同意するが、同時にたしかにこのようなシステムが犯罪発生後の解決に資しているとも認識している。この点に関して、路上での撮影に関しては、そのプライヴァシーの侵害性、あるいは肖像権に関してすでに最高裁判決が出ている[9]。しかし道路が民営化されて、いわゆる公共的な場所がすべて私有化される無政府社会では、このような肖像権は問題にならないだろう。なぜなら、人の家や庭に自分から入りこんで、同時にその撮影の違法性を主張する人はいないだろうからである。

 あるいはまた別の問題としては、日本に特有な道路状況として、多すぎる信号がある。信号はドライバーの運転時間を長くし、燃費を悪くするという費用を伴うが、その反面、事故を防ぐという利益ももたらしている。現状では、事故が多い場所には自動的に信号が設置されているが、それ以外の多くの社会的に無駄な信号もまた撤去されない。なぜなら、日本では、信号の設置場所を決めているのは警察であり、警察組織にはドライバーの満足度を高めたり、あるいは効率的な移動や物流を促進するためのインセンティヴがまったくないからである。

 民間の道路会社であれば、できるだけ多くのドライバーに利用されるように道路を整備するだろうが、ドライバーは信号が安全に寄与すると認めると同時に、その道路利用の快適さを低下させるということも理解している。私有化された道路では、現在よりも信号の多い道になるかもしれないし、あるいは信号は減るかもしれない。しかし、ともかくも、道路会社はドライバーの望みを知ろうと努力をするはずだが、国家警察にはドライバーの都合を考える必要などはまったくない。

 最後になるが、ベンソン(Benson 1998)は私有化されたコミュニティ道路の活用は、犯罪対策として非常に有効であることを主張し、実際にデータを出しているのである。現在でも、アメリカや日本には、スピードを出しにくくするために、わざと曲がりくねらせたり、デコボコを造ったりしたコミュニティ道路が数多くある。これらの道路を地方自治体ではなく、あるいは道路会社でさえもなく、その道路を第一次的に利用している地域住民に共有させることによって、抜け道として道路を使う危険なドライバーは減少させることができる。また、共有は不審者の発見を容易にし、犯罪を未然に防ぐことにもつながるのである。

 

川や湖沼

 道路の私有化というとき、そこでいう道路は当然に橋梁を含んだものである。これに関連して、河川や湖沼などについても民間による私有化される状態を考えてみよう。

 あまり話題として面白くないのだろうか、河川の民営化について論及しているリバタリアンを私は知らない。しかし、河川もまた民営化される必要が高いものである。河川は、その管理に大きな危険と責任を伴う。堤防が決壊して氾濫すれば、その被害は数百億円にもなりうる。同時に、河川の堤防工事はどれだけ行ったとしても、氾濫の危険性をゼロにすることはできない。このような場合、適切な管理を国家に期待しても、実際には政治家と官僚組織のもつインセンティヴからすれば、利益団体である土木事業者や公営の水道事業者などにとって都合のいい結論に誘導されてしまうことは、経験的にも明らかである。

 河川は氾濫する可能性もあるが、その与えてくれる利益もまた、上流域での発電や、中下流域での飲料水、あるいは工業・農業用水への利用など、継続的、金銭的に巨大なものがある。こういった事業においても、どのような利水、治水方法が望ましいのか、ダムは必要なのか、あるはそれは単なる環境破壊なのか、それらを決定する必要がある。これらの活動について、無関心・無関係な有権者団による投票と、その後の政治家への献金システムによる決定が望ましいということは、到底ありそうもない。

 また、堤防の利用法についても、現在のように、何の関係もない人たちが勝手に農耕を始めることによって時効取得を主張することができるような公共財として扱うことが効率的であるはずがない。おそらくは、河川敷というリスクを伴った場所であることを前提としつつ、現状以上にグラウンドや農耕地として利用されるべきだろう。

 さて、歴史的にみて、河川を私有化していた社会はないようである。おそらくこれは、近代以前の社会では、灌漑設備が発達していなかったため、利水がそれほど大きな権利を構成しなかったため、水利権を認めるにとどまり、所有権を考える必要がなかったからだろう。また、河川での漁業もまた、完全な排他性を確立するほどには大きな価値がなかったのだと考えられる。

 これに対して、現代では、河川は広く飲料水や工業用水の供給源になるだけでなく、ダムを作れば、利水にも役立つし、発電もできれば、リクリエーション施設にもなる。河川での釣りや漁業、さらに堤防や河川敷の利用を含めれば、大きな価格をつけることが可能である。

 もちろん、河川の価格がつけられるとしても、それは氾濫した際の責任を無過失責任とするか、あるいはある程度の数学的な確率に基づいた過失責任とするかによって大きく異なるだろう。なぜなら、河川の所有者は、氾濫時の損害賠償に備えて、巨大な損害保険会社から再保険契約を購入するだろうが、その保険価格は損害賠償の期待値に依存しているからである。しかし、現在、河川管理者である国や地方自治体が負っているような、比較的低いレヴェルでの過失責任のみを認めるのであれば、河川は大きな経済的な価格をもっているはずである。

 

電波の利用

 シカゴ大学の法学者ロナルド・コースは1960年に、その著名な論文「社会費用の問題 (The problem of social cost」」において、電波の周波数帯域の競売のアイデアについて述べている。それから40年以上を経て、EUではついに携帯電話用の電波帯域を競売にかけるようになった。

 このような解決法は、リバタリアンが好むものであることは間違いない。電波はまさに典型的な公共財としての非排他性をもっており、さらにはその社会的な価値の高さから考えても、財源とするべきだと考えられるからである。日本やその他のほとんどの国で行われているような許可制の電波行政は、自国民の報道の自由を奪い、最悪の場合には国家当局に都合のよい報道に偏るなどの多くの弊害を持っている。まさに国家権益を運用する側にのみ、うまみがある旧時代の社会主義的・国家主義的な制度なのである。

 現行制度である国家によって支配される電波発信の許認可制度は撤廃し、即座に全帯域を競売にかけることによって国家収入とすべきだろう。この場合、無政府主義の視点から注意したいのは、この競売にかけられるのは「期限付きの」電波帯域の使用権ではなく、永久的なものであるということである。そうでなくては、再び競売がなされる際にも、国家が存続していることを前提としていることになる。

 値段は、可視光線にはつかないだろうし、超短波域にもつかないだろう。両者は安定的な通信に向かないからである。しかし、それ以外のどの帯域にも、その将来的な利用ポテンシャル、排他的な利用可能性に応じた価格がつくだろう。いうまでもなく、現行の国家によって管理された電波の利用法とは異なり、私有財産としての電波帯域とその利用法は、その可能な通信量をつねに上昇させることが経済合理的になる。より効率的な利用へのインセンティヴを、誰もが持つというのが経済学者の指摘する、私有財産制度化の美点なのである。

 ここで、思考実験を行うのが興味深いだろう。電波の利用によってラジオやテレビが実用化された時点で、すでに20世紀の領域的主権国家は絶対的な存在であった。だからこそ、すべての国において、電波発信が国家によって許認可されるようになったのである。しかし、これは自明なことではない。多くの人の常識とは反対に、特定の周波数帯域における、特定の範囲での電波発信は、歴史の現実とはまったく異なって、完全に私有財産となることもできたはずなのである。

 電波発信は、土地の所有と対比することができる。土地が一般に私有財産であるのは、同じ土地を異なった用途に利用することはできないことと、実際に所有権が侵害された際には実力行使によって防衛することができるからである。同じように、電波発信も、その最初期には、誰もが自由にできた。しかし、その後、電波による通信が実用化され、電波通信の経済的な価値が高まると、国家はその利益をすべて自らのものとして取り上げたのである。

 しかし、誰でもが自由に電波発信をすることが可能なままでも、自生的に秩序は発生したはずである。ちょうど、アメリカの中西部開拓においてホームステッド法が果たしたように、一定の範囲の電波の発信は、無主物の先占としてそれを始めた人間に権利として許してもよかっただろう。電波の混信という「侵害」行為に対しても、法的な措置はとりえるし、混信させたほうも通信の利益を一方的に享受できるわけではない。とすれば、そこには自然と私有財産秩序が発生しただろうと考えられるのである。

 このような考えが非現実的だと思われるのは、現代社会においての電波発信の持つ、あまりにも巨大な価値を我われの誰もが理解しているからである。しかし、最初に電波を発信した人間にとっては、電波発信はコストが大きい割には、ほとんど限られた受信者しかいなかったため、大きな価値があったわけではない。それが、次第に価値を持つようになっていったのは、効率的な送受信の方法が発明され、ラジオやテレビが普及して、かつ広告が洗練されて効果を持つようになっていったからためなのである。

 現在、1兆円を越えるマンハッタン島の土地の価格もこれと同じである。それを1626年に24ドルで売り渡したといわれるインディアンたちにとっても、それを購入したオランダ人にとっても、将来的にその土地の価格が現在のようになるとは思っていなかっただろう。電波帯域の独占的な利用の価値と、土地の独占的な利用の価値とは、ひじょうに遠い将来にそれらがどのような価値を持つかは誰にも予想できなかった点において、本質的に同じなのである。

 福祉国家主義者の立場からすれば、土地に固定資産税がかかっているのと同じように、電波の利用に税を課すこともできるだろう。あるいは、資産税を極端に高めれば、一定期間の利用権を競売にかけることと、限界まで高い課税をすることは同値であるため、電波の期間付き利用権の競売とは、電波に対して可能な限り高い税金を課すことと同じになる。無政府主義者の私が提案するのは余計なことだが、土地への税や電波への税によって最小国家、あるいは福祉国家をまかなうほうが、労働中立的であり、所得税に比べて効率性の立場からはより望ましいものなのである[10]

 さて、土地に税金を課すことは、私的所有権の絶対の原則に抵触するものだとして、権利基底的なリバタリアンの多くが反対している。同じように考えれば、特定帯域の電波の利用権とは、土地の所有権と同じであり、無政府の社会では完全な私有財産として管理・利用されるべきことになる。

 

環境問題

 環境問題は、古くは公害の問題だと考えられたが、21世紀に環境問題といえば、ほとんど地球温暖化や種の絶滅などのことを指すのが一般的である。よって、1、公害などの古典的な地域的環境問題を論じた後に、2、地球レヴェルでの環境問題について考えてみよう。

 さて、コースは前述の「社会費用の問題」において、公害のように契約関係にない不特定多数の人間にかかわる経済問題を論じた。そこでは、どのようにであれ、最初に関係者の権原をもれなく定義すれば、基本的には、関係者間の交渉によって効率的な解決がもたらされるという、有名な「コースの定理」が提示されたのである。

 たとえば、ある工場による大気汚染は、その工場と汚染された空気の被害を受ける人たちとが交渉すれば、汚染物質の量をどれだけ排出するか、どれだけの損害賠償がなされるか、などが決定されて、効率的な解決法となるというのである。

 しかし、現実には、工場は多数であったり、被害者が数百人、数万人にもなったりすれば、ほとんど交渉による解決は望めない。現実としては、妥協点が見出せなくなって、解決が不可能となってしまうのである。これはコース自身が指摘している問題点であり、それ以来経済学の文脈では「交渉費用(transaction cost)」の問題と呼ばれている。

 交渉費用が高くつく場合、社会的な問題は裁判制度による仲裁活動によって個別的に解決されると同時に、将来に向けては法律が成立して予防されることになる。法律の制定という政治的な解決では、公害対策基本法にみられるように「工場あたりの汚染物質の濃度」が決められたり、あるいは有用ではあっても有害な物質の製造が禁止されたりする。これらの解決法が経済的にみて効率的であるのかどうかは判然としないが、そもそも多数者の合意形成が現実に不可能である以上は、裁判による仲裁よりも、政治的な強制力を使って何らかの解決を図るのはやむをえないと考える人が多いのは自然だろう。

 これに対して、無政府の社会では、公害はどのような形で解決されるのだろうか。

 私的な権利を守るための組織は各個人が契約する警備会社だが、公害の場合には法律的な問題を含むので、民事訴訟が起こることになる。ここで即断することなどはもちろん不可能だが、アメリカで制度化されているような、クラス・アクション(class action)と呼ばれる集団訴訟が一般的な慣行になるように思われる。クラス・アクションとは、訴えを起こした当事者の訴訟が、訴えを起こしていない他の被害者の損害賠償権をも、強制的にその訴訟の勝ち負けの結果に巻き込む集団的な民事訴訟制度である。

 なぜ、アメリカでは、このような制度が採用されているのだろうか。それは、簡単にいえば、社会全体としての紛争の効率的な解決のためである。日本の民事訴訟制度においては、公害などの被害者の一部が起こした訴訟は、当人達以外の被害者の訴訟とはまったく別のものとして扱われるのが原則である。この場合、公害などのような無数の被害者がいる事件では、原理的には無限に訴訟が起こりえるし、その訴訟結果もまた各当事者の訴訟遂行の拙劣によって異なったものになってしまうこともある。また訴訟には、弁護士や裁判官をはじめ、多くの人的・物的資源が必要であるから、社会的全体として紛争を一回的に処理できることは、社会契約として合理的なのである。実際に2007年にOECDは、日本に対してこの種の集団訴訟制度を設けることを勧告している。

 具体的には、足尾銅山や水俣病、イタイイタイ病などのような事件では事業者が、また道路の大気汚染では道路会社が、四日市ぜんそくなどのような工場の大気汚染では集団としての事業者が、それぞれ被害者から訴えられるだろう。ともかくも、なんらかの過去の被害への損害賠償や、今後の差止請求などがなされることによって、(民間の)仲裁裁判所の判決は判例として蓄積され、実質的には問題解決のための法を創造してゆくことになる。

 第7章で法の進化について詳述するように、あるいは異なった法律制度、この場合は判例が集積されてゆくかもしれない。その場合、各人は自分が望ましいと思う法制度を採っている仲裁会社・警備会社と契約することによって、自らの権利を守ってゆくことになるのである。

 次に、地球規模の環境問題について考えてみよう。ここでは、地球温暖化の問題などを念頭におくが、本当に地球温暖化が巨大な損失を生むのであれば、その損失を受ける人びとが、地球の気温上昇を招いている(と考えられている)二酸化炭素をはじめとする温室化効果ガスの排出者を相手に、その排出量や温暖化効果に応じて賠償を要求することになる。

 実際には、地球の温室化効果の被害者は、はっきりしているオランダや太平洋の島嶼国家には存在しても、日本やアメリカ、ヨーロッパ全域にはほとんどいない。現在のような先進国だけの炭素排出権取引が、どの程度の損害削減を意味するのかははっきりしないのである。(私は信じていないが)ともかく、無政府の社会でもほんとうに二酸化炭素の削減がある人びとの利益にかかわる問題なのであれば、その被害者が訴訟を起こすことは可能なのである。

 無政府主義からはそれた話題になるが、実際には、多くの環境主義者は「単なる経済的な尺度では被害は測れない」と主張する。とするなら、我われにはどの程度二酸化炭素の削減をするべきかという行動基準を計算することが不可能だということになる。また、世界の野生種の種数が熱帯雨林の消失とともに激減しているというような危機感は、すべてのマスコミが共通して持っているようだ。しかし、それが誰に対して、どの程度の利益や不利益をもたらすのかをまったく算定しないままに、教条的に消費活動一般に罪悪感を覚えるべきだというのであれば、それは現代の新たな宗教でしかない。

 地球規模の環境保護運動は、世界中で日々高まり続けている。おそらく、それは価値相対的な現代社会において、宗教を超えた新たな現世宗教としての、共通価値を与えてくれるからだろう。ラブロック博士のガイア仮説から始まって、地球の現在環境それ自体に価値があるのだというディープ・エコロジーも盛んに環境保全の価値を訴えている。

 もちろん、無政府の社会でもそのような運動や価値観が主流となることはありうるかもしれない。しかし、実際の環境運動家は、社会主義消滅後のあらたな全体主義者であることがほとんどである。多くの運動家は「無知で無責任な一般人を啓蒙し」、国家的な強制力によって環境保護運動を貧しい人々に押し付けるのが、当然の道徳的な義務だと感じているからである。

 たとえば、炭素税が導入されて、ガソリンの値段が高くなったとしよう。こういった環境保護運動は、彼ら運動家自身の満足感のために、貧しい人びとから自由な自動車による移動の可能性を低下させているだけだと、私には思われる。同じように、石油を採掘するためにインドネシアやブラジルの熱帯雨林がどれだけか、あるいは多くが破壊されなければならないとしても、私には熱帯雨林が絶対的に優先される必然性は乏しいように思う。

 なお、一般的にリバタリアンは石油や金属などの資源の枯渇、さらに種の絶滅を危惧しての資源保存運動や環境保護運動には懐疑的であることが多い。その点に関しては経済学者ジュリアン・サイモンが参照に値するだろう。彼は歴史的なデータをもとに、人類にとって有益な資源は、採掘技術の進歩と代替資源や代替技術の発展によって、事実上、無尽蔵に存在すると主張した。そしてまた野生種の絶滅が生じているとしても、絶滅を防ぐために無限のコストを支払うべきではないと主張する。それに代わって、合理主義的に、その保全を図るためのコストと、種の保存による潜在的な利益をなんらかの形で算定してから、資源保護を考えるべきだという。

 彼はエドワード・ウィルソンをはじめとする著名な生物学者が生物多様性を熱心に保護しようとする態度について、

 

生物学者たちは、そのほかの分野では、社会が決して認められないような、白地手形の発行を望んでいるのだ。どんな人でも、議会に行って飢えた子どもたちに与える食事のための予算や、高速道路のガードレールを要求する際には、どれだけの人びとが危険にさらされているかの試算もなしにはいかないだろう。しかし、生物学者たちはこの点に関して、生物学者以外はこういった「生物種の価値」を理解できないのだという前提において、異なった行動をとることを正当化しているのだ。

 

と批判している[11]。この結果、経済学者であるサイモンはすべてのエコロジストによって嫌われ、個人攻撃を受けるような存在となったのである。

 サイモンに影響を受けて、スウェーデンの元グリーンピースのメンバーであった統計学者ロンボルグもまた、環境問題への対応策は現在のような優先順位や費用対効果の分析の欠如した危機意識から行うべきではないと主張している。環境主義者とマスコミのつくりだす詐欺的映像やレトリックの作り出すイメージとは反対に、サイモンやロンボルグは、天然資源の埋蔵量は増えており、食糧事情はよくなり続けており、水資源は潤沢・清潔になり、疫病は減り、環境ホルモンの影響を含めた公害は減ってきていることを統計的にはっきりと示している。世界の平均寿命の伸びを見れば、これが本当であることは推定できるだろう。

 また生物種の減少はほとんど存在せず、温暖化の影響もひじょうに限定的にものにとどまり、21世紀の海面上昇が、せいぜい数十センチにしかならず、現代の土木技術を持ってすれば、二酸化炭素排出を削減する必要性などないことも指摘している。世界的に数十センチの堤防を造るのと、二酸化炭素削減のために毎年世界的に数十兆円を使い続けるのでは、まったくコストの桁が違う。

 なお2007年のIPCCの第二パネルでは、地球温暖化によって21世紀中に19センチの海面上昇が考えられると報告されている。これはロンボルグの著作発表時よりもさらに低下している。歴史的な事実によれば、20世紀中には80センチの海面上昇が存在したのである。なぜ20センチの海面上昇が、21世紀の人類への脅威になるのだろうか。

 現在のように、マスコミが危機感をあおったり、京都議定書などを批准して、強制力をもった各国政府によって対策を採ったりすることはほとんど正当な理由がない。また地球の環境を制御するという目的のために、貧困対策にも使える資源を投入したりすることが、経済的に引き合うことなのかを合理的に考えるべきだろう。

 あるいはその結果、人びとが納得すれば無政府の社会においても合意がなされ、温室効果ガスの排出に対する監視機構が組織され、さらには警備会社や自発的な「環境警察」によって強制されるようになるかもしれない。しかし、それは現在のような曖昧な前提に基づくものではないだろう。

 



[1]  日本ではこのような富者による貧者の政治的な搾取という考えは人気がないようで、研究者もあまりいない。これは、アメリカではロビー活動の実態が、日本の族議員以上に広く研究されていることにも現れている。これは一つには「政治」という活動が利己的であるという概念を日本人が直視することを嫌うからのように思われる。なお、特殊利権のぶつかり合いとしての政治という分析の理解には、1962年以来、すでに古典となったBuchananTullockによる『合意の計算Calculus of Consent』が最適だろう。

[2]  ここでの殺人の(確率的)許可契約は、後述するような「同意殺人」や「嘱託殺人」とは、倫理的な直感からして異なっている。その直感とは、金銭的対価の支払いによって、生命が完全に一般的な商品と同じように、他者の快楽と直接に取引されていることに理由があるのだろう。

[3] ここでの引用はHoppe, The Myth of Self-Defenseに引用されている部分を訳出した。

[4]  Molinari, The Production of Security,  pp.3-4

[5]  Molinari, The Production of Security,  pp.13-14

[6]  For a New Liberty, p.227

[7]  Rothbard, For a New Liberty p.208-209はアメリカのフリーウェイが税金で整備されたことが、鉄道輸送に不利益にはたらいたことを指摘し、また都市部の道路利用者は税金による道路整備の優遇を受けていると主張する。

[8]無料の路上駐車が許容されることから生じる社会的な費用が膨大なものであり、我々の想像以上に都市の渋滞を悪化させ、都市への通勤のコストを高めていることについては、Shoup  The High Cost of Free Parkingに詳しい。

[9]「京都府学連デモ事件」(刑集23巻12号1625ページ)で最高裁は、いわゆる肖像権がプライヴァシー権として憲法13条において保障されるとしているが、同時に、犯罪行為の撮影などは公共の福祉からの制約として許されるものと判示している。

[10] スタンダードな経済学の理論を参照してみよう。土地のレントに課税することは土地の供給を変化させないため社会的な影響がないが、所得税は、非課税者の労働の価値を労働者にとって低めるため、労働供給は低下する。その結果、社会全体としては、所得税の導入により、より貧しい社会になってしまうのである。

[11] Simon,1998  p.448