1、無政府主義

 これまで日本では、無政府主義といえば、左翼の極限的な主張であると考えられてきた。それは既存の秩序の全面的な否定であり、私有財産を前提とした商業活動や国家のみならず、婚姻制度や家族制度など社会倫理全般に及ぶ、あらゆる秩序の破壊をもくろむものだったと思われている。

 この線にそった主張でもっとも有名なのは、フランスのピエール・ジョセフ・プルードンである。すでに1840年にプルードンは、その著書『財産とは何か』において、「私的所有、それは盗みである」という私有財産論批判で、世界的に著名になっていた。しかし、彼は性格的には温厚で、誰の意見も丁寧に聞こうとしたといわれている。彼の晩年は国際的な社会主義運動が高まり、運動を中央集権的に推し進めようとしたマルクスなどに対して、「連合主義」をかかげて分権を主張した。またロシア人であるバクーニンは、この分権的な政治活動をより組織化することによってマルクス派に対抗しようとしたといわれている。

 しかし私は、これらの社会主義運動としての無政府には、そもそもあまり未来があったとは思わない。彼らの理論は権力を否定するという点で平等を目指したものだが、その人間観があまりにもユートピアンだからである。ヒトの個体は「自分」の遺伝的な繁殖を究極の目標として進化してきている以上、その基盤となる私有財産などを否定するような制度は、我われの道徳的な直感とは容易に合致しない。また同時に、私有財産制度の否定は、局所的にしか存在しえない生産知識の活用を妨げ、社会の生産性を絶対的に低下させてしまうことになる。

 私が親近感を覚えるのは、ロシアの夢想的アナキストであったミハイル・クロポトキンである。クロポトキンは生物学者としても活躍したが、その思想はあえていうならホッブズよりはロック、さらにはルソーに近い。彼は1902年の著書『相互扶助論』において、自然界はたしかに進化論によって形成されてきたことは認め、しかし、それは弱肉強食というようなものではなく、相互に助け合うという形がもっとも一般的なのだという説を唱えた。今でいうなら、リン・マーギュリスらの主張する、細胞の共生発生説を髣髴とさせる進化理論なのである。

 しかし、クロポトキンは、犯罪というのは社会的な病理であり、無政府の社会ではなくなるだろうと主張するようなユートピアンであった。このような左翼的な無政府主義は、私の立場ではない。彼らが日本の無政府思想史に与えた影響は少なくないが、ここではかれらの思想には深入りする必要はない。

 

アメリカの無政府主義

 ヨーロッパ大陸の左翼的無政府主義が、政府に対する嫌悪だけではなく、社会的な因習に対する否定をも含んでいたことは間違いない。これに対して、新大陸の移民国家であるアメリカでは文化的な伝統は弱く、あるいは比較的に合理的なものだけが残っており、批判する必要はあまりなかったのだろう。よって、アメリカの無政府主義者は、資本主義的な交換経済やその基礎となる開墾に始まるような私有財産制を当然視した。そして、それを強制的な租税制度によって強奪しようとする、あるいは自由な職業活動を規制しようとする政府に対して反抗したのである。

 考えてみれば、アメリカの建国の父たちとは、イギリス政府の支配から独立を成し遂げた人びとである。政府への不信というものが根底にあるのは必然的であっただろう。だからこそ、ロックの思想に基づいたヴァージニア州憲法、アメリカ合衆国憲法、などでは天賦人権説を謳った後、政府による基本的人権の蹂躙に対しては抵抗権があると明言するのである。

 しかし、合衆国憲法の由来となった天賦人権説や社会契約説は、ともにフィクションである。18世紀の時点では、神が人間を創造したと考えることも可能であっただろう。この時点では、天賦人権説のほうはフィクションではないとも考えられていた。しかし、ホッブズやロックの仮定した社会契約が現実には存在したことがないのは疑いもない事実である。すでに19世紀中葉には、アメリカの無政府主義者ライサンダー・スプーナーは『反逆にはあらず(No Treason)』をはじめ、多くの著作によって、政府の必要性も正当性も、そもそも存在しないと主張したのである。

 この後、1930年代に入ると、アメリカでも世界恐慌からの脱出のために国家の役割が福祉国家へと変貌を遂げていくことになる。それに反対する古典的自由主義を信奉する人びとは、あるいは夜警国家に戻ることを主張し、あるいはむしろ政府を解体して無政府資本主義を実現することが望ましいとまで主張する人びとも現れた。彼らは古典的な自由主義の復活を目指し、1970年代までには、すでに福祉国家主義者にのっとられてしまった「リベラル」という呼び方を放棄して、自らをリバタリアンであると称するにいたった。

 本書はこの伝統の上に立って議論を進める。

 

「資本主義」の含むもの

 ここで本書における語法について、若干の補足を加えたい。それは「無政府資本主義」という言葉についてである。前述したように、これまでの政治学的な分類によれば、「無政府主義とは政府のみならず、私有財産や企業活動なども含む一切の権威の否定」というものであったため、私有財産制度や企業制度を肯定しながら、政府のみを否定しようとする試みは、無政府資本主義と呼ばれることになってきた。

 この名称がミスリーディングなのは、「資本主義」という言葉である。左翼的無政府主義者は、政府も財産制度もない社会で、人びとは友愛と互助、自発的労働や強調によって生産や分配が行われ、人びとは平和のうちに暮らすことが可能であると考えた。彼らは、資本主義とは、利己的な私有財産を前提にしているだけでなく、労働もまたスクルージのような拝金主義者が金儲けのために行うという卑しいものだと見なす。よって、彼らの視点からは、無政府資本主義は、正当な無政府主義ではないことになる。

 しかし、資本主義とはスクルージのような金儲けの亡者のみが活動するような社会ではない。言うまでもなく、そこには愛情に支えられた家族もあれば、共感による地域コミュニティもある。さまざまなNPOやヴォランティア活動もあれば、神聖なる目的によってたつ宗教的な共同体もある。現代社会に明らかなように、資本主義はそれらのすべての活動と営利活動とが平和のうちに共存しているものなのである。仮にすべての人が聖人になったのなら、営利目的の企業活動を全面的に停止して、宗教共同体に戻ることも可能である。

 反対に、私が本書で展開する利己的な人間性を前提にすると、左翼的な無政府主義は機能しないだろう。そこで、英語ではanarcho-capitalismと呼ばれる無政府資本主義であるが、本書では単純にこれを以後、単純に「無政府主義」と記述することにしよう。そして左翼的な無政府主義との区別がはっきりしない場合にのみ、原則に戻って無政府資本主義と記すことにする。

 


2.前提1:進化論と利己的遺伝子

 社会科学に限らず、学問というのは多かれ少なかれすべて歴史的に形成されてきたため、ある学問分野を知るには、その祖先神たちの名前を知らねばならない。たとえば物理学であれば、ニュートン、マクスウェル、アインシュタイン、ボーア、ファインマンなどだろうが、彼らの個人的な著作が現代の学生に読まれることはない。通常、学生は、先人の理論を体系化した教科書を学習する。巨人たちの書いた元論文は科学史的な価値を持つだけである。

 しかし、社会科学のおかれた状況は、これとはだいぶ違う。学問はほとんど無意味に細分化されており、その分野の祖先神、あるいは巨人の言葉の引用に終始しがちである。引用される人物をみるだけで、およその内容までわかるほどなのである。社会学であれば、コントやマルクス、ウェーバー、ジンメル、グラムシ、さらに現代的にはフーコーやアドルノなどを加えてもいいかもしれない。法学ではイェーリングやケルゼン、ハートなどの名が挙がるだろう。社会哲学では、プラトン、アリストテレスからホッブズ、ロック、ルソーなどが即座に想起される学統上の祖先神である。

 無政府について考える本書の祖先神は、本来ならばプルードン、クロポトキン、バクーニンあるいはマルクスなどのはずである。しかし私は、本書の第一の前提は進化理論、あるいはその伝統を受け継いできた生物学的な行動科学であり、進化理論以前の学者への言及は、基本的には命題の補強においてのみ使う。なぜなら無意味な思弁としての道徳科学は古代から連綿と続いてきたが、人間の社会行動がどの程度利己的であり、また利他性はどの程度において存在しうるのかという科学的な探究は、社会生物学論争を経て、ここ30年ほどで急速に確立してきたからである。

 

利己的遺伝子

 1859年にダーウィンによって進化論が提唱された後、その人間への含意が広く知られるまでには長い時間がかった。ダーウィンから100年間はDNAによる遺伝子構造が明らかではなかったこともあって、進化理論における淘汰の単位が生物種なのか、あるいは生物個体なのか、さらにメンデルが主張したような遺伝単位なのかがはっきりしないままに、議論が行われていたからである。

 「種の利益」に反するために、野生動物は殺し合いをしないとか、「群れの利益」のために個体は警戒信号を発するのだとか、というような群淘汰的な考えは、今もマスコミには時折見受けられる。しかし、進化とは、自己複製を繰り返す無目的なDNAの断片の増殖の過程であり、それは第一義的には遺伝子自体の複製の効率に依存する。なぜ、それ自身を含む個体に不利な行動をもたらすような遺伝子が、種内に広がりえるのだろうか?

 アメリカの海洋生物学者ジョージ・ウィリアムズは1966年の著作『適応と自然選択(Adaptation and Natural Selection)』において、当時広く存在すると信じられていた群淘汰の概念は、現実には生物の行動の説明足りえないと主張した。ウィリアムズの論駁によって、利他行動のような、明らかに群淘汰、種淘汰の説明として持ち出されていた行動は、個体とその血縁個体に対する利益に還元されることになったのである。

 これは、つまり何を意味するのだろうか?

 社会倫理の常識によると、我われは利己的な行動を慎むべきで、利他的であることこそ道徳的であると教育される。だが、利己的ではない個体は、定義上、その繁殖に関して利己的な個体よりも不利になる。利他性をもたらすような遺伝子は、地質学的な時間のなかで、種内に存在する遺伝子の集合(遺伝子プール)から消滅していくのではないだろうか?

 これに対する答えの一つは、1964年にイギリスの進化生物学者ウィリアム・ハミルトンによって提出された血縁淘汰の理論である。利他的な行動はたしかに当該個体の適応度、つまり繁殖の可能性を下げるが、それ以上に血縁個体を利することによって、その行動を発現させる遺伝子を集団内に広めるという。この血縁選択の明らかな例は、子どもの養育である。子どもを養育するには資源が必要であり、個体の存続や次回以降の生殖活動には不利であることが普通である。しかし、倍数体(通常のオスメスの存在する)の生物個体にとっては、子どもは自分の遺伝子の半分を各親から受け継いでいるため、養育に値するのである。

 また別の重要な例では、アリ、シロアリ、ハチなどのように不妊の労働カーストを持つ社会性昆虫があげられる。不妊カーストの個体は自分の子どもを残さないが、それと近親関係にある女王の子どもを通じて、遺伝子的な繁殖目標を達成する。不妊カーストをもつ生物種は真社会性であると呼ばれるが、最近では倍数体の生物種でも、ハダカデバネズミなどのように真社会性を持つことがわかっている。

 オックスフォードの進化生物学者、リチャード・ドーキンスはこの遺伝子中心の考えを進めた。1976年の『利己的遺伝子』において、個体や遺伝子の自己増殖を目的とする一時的な「乗り物」でしかないと結論付け、さらに『延長された表現型』では、ビーバーのダムなども、生物個体と同じように遺伝子の発現と考えることができるとした。私見では、近い将来に、各地の法や倫理、慣習も、ヒトの地域集団に固有の「表現型」だという作業仮説が社会科学でも支配的となるだろう。

 40億年にもわたって進化してきたヒトの個体について考えても、おのずとその個体は原則として利己的であるということになる。利己的ではない個体は定義によって自らの生存の確率を低めてしまい、繁殖の機会や可能性も失ってしまうことになる。利己的な個体を作り出す遺伝子でなくては、天文学的な時間にわたって、その遺伝的な存続を維持してくることは不可能だろう。

 そして、利己主義の延長線上には血縁淘汰を原因とする近親ひいき(ネポティズム)が明らかに見られるはずである。これはあまりにも我われの社会に普遍的であるため、歴史的に見ても、現代社会を見ても特段の説明の必要はないだろう。

 

利己的行動の進化

 これに対して、利他的な行動はどうなのか?それは進化する可能性がなかったのだろうか?

 これに対する答えは、限定的な肯定というものである。生物学者の間でおそらくもっともよく引用される例の一つを、自然科学誌である『ネイチャー』から挙げてみよう。中南米に住むヴァンパイア・バット(チスイコウモリ)は、大型動物の血を吸うことで主なエネルギーを得ているが、猟に出かけても、かならずしも満腹で帰巣できるわけではない。このような場合でも、まったく血縁度のない個体が血を分けてくれることがある。それによって、餓死の危機から逃れることがあるのだ。お返しに、次回自分がたくさんの血を吸うことができて、以前に助けてくれた個体が餓死しそうなときには、やはり血を分けてやり、お互いに互恵的な関係を築くことが報告されている(Wilkinson 1984)

 個体識別を行うような高等生物の場合、長い時間をともに過ごすのであれば、助け合うことは割に合っており、協調行動としての利他行動が進化することはごく自然であろう。情けは人のためならず、という日本のことわざの教えるところでもある。生物学に限らず、互恵的な利他行動はコンピュータプログラムにおいても戦略として強力であることがアクセルロッドなどによっても報告されている。こういった進化論的な利他性の起源への私の理解は、マット・リドリーの『徳の起源』と基本的に同じものである。

 また実験経済学の膨大な実証研究でも、たしかに我われは自己の利益のみを最大化する経済的な合理人ではなく、相手との公平をも考慮に入れて活動する、実に社会的な存在であることがわかっている[1]。とはいえ、私の知る限り、どのような実験においても、自分の利益よりも相手の利益を優先するような行動が安定的に示されたことはない。

 利他行動はたしかに存在し、我われの社会規範の一部として確固たるものとして認識されている。だが、それはネポティズムであることが多く、そうでない場合でも共同行為によって長期的な利益を得ることができるという特殊な条件においてのみ、その存立基盤が提供される。これに対して、利己的な行動は、我われの社会において主流の行動であるという観察もあれば、直感も、さらに理論的な必然性もある。このことは、誰にとっても自分が1億円をもらうことは、日本国民全員が1円をもらうよりも、はるかに好ましいに違いないと断言することで十分だろう。

 よって、私の立場は、「人間は原則的には利己的であり、自分の利益を第一に考えるが、血縁が利益を得るような場合は自分が損をすることもいとわないこともある。また互恵的な利他行動(厳密には延長された利己的ともいえるが)は非常に頻繁に見られ、社会行動の基礎を成している。しかし他人に対する純粋に利他主義的な行動というものは、戦争や大災害、突発的な事件などのように非日常的な状況でしか発現しない」というものである。

 私は、利他行動というものの存在を完全に否定しているわけではない。戦時下や人命救助などの緊急時には、まさに自らの身を挺して行われる利他的・英雄的な行為は数え切れないほど報告されている。人間というものに対して斜に構えるのもいいかもしれないが、私は人間は確かにすばらしい公共性的な精神を持っている[2]

 しかし同時に、それが政府組織あるいは警察組織で発揮されることはあまりないとも考えている。我われの望みとは異なって、それらは経済的な対価の獲得を目的とする従業員によって運営されている組織であり、日常的に同じような業務が繰り返され、その本質は営利企業とまったく同じだろう。そのような組織で利他行動が原則となりえるとは思われない。平時の我われは誰しも、なるべく少ない労力で、なるべく多くのリターンを得ようとする存在であるはずだからである。

 それは、大学でも、非営利法人でも、犯罪弁護活動でも同じだろう。したがって例えば、日本国憲法15条2項には「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とあるが、無政府主義者であり、進化論者である私は、これは不可能を当為命題化したものだと考える。人がそうであるべきだという規範的な命題が憲法に規定してあるからといって、そこで働く人びとの行動が実際にそうであると考えるのはユートピアンな理想か、パロディか、あるいは詭弁だろう[3]

 アダム・スミスも『国富論』に先立つ『道徳感情論』において、人間が他人に共感することを秩序形成において重視している。私は、これは、物理学での強い相互作用に譬えられると考えている。強い総合作用は距離が離れると急速に弱まるが、ごく近距離のミクロな世界では強大な接合力を発揮して、原子核を結びつける。

 これに対して、スミスが『国富論』で指摘した利己主義に基づく経済活動は、物理学でいう重力に譬えられるだろう。重力はひじょうに弱い力だが、それにもかかわらず長距離においても減衰の程度が弱い。だからこそ、天体の運行を決めるほどのマクロ的な、広大な空間を支配する法則になっているのである。

 われわれの生産消費社会も複雑で広大なコスモスである。そこでは、家族や親戚、せいぜい小さな会社までは、強い総合作用的な利他主義も機能するかもしれない。しかし、生産活動や社会全体の財や資源の配分は、マクロな活動である。そこでは重力に譬えられるような、利己性に基づく経済活動のほうが圧倒的に信頼でき、重要なものと考えられよう。 そしてこの認識こそが、無政府資本主義へといたる基本的な発想なのである。

 

感情の進化:第一次的意思決定

 さて、本書では刑事法規その他すべての法律の私有化を考えるが、その前提として、我われの持つ愛や憎しみなどの「感情」と呼ばれる心理メカニズムが、どのような理由で備わっているのかを、ここで確認したい。犯罪行動や犯罪者への憎しみなどに代表される、感情メカニズムというものに対する理性的な理解が得られれば、感情の存在そのものをなくすということは不可能でも、社会制度を考えるうえでは有用だからである。

 まず端的にいえば、感情とは、理性的な意思決定という「情報処理負荷の高い」判断を待つことなく、即座に行動に出るために進化してきた心理メカニズムだといえよう。ライオンに出合ったヒトはライオンのもつ、大きな体や牙などの攻撃的な資質について、「理性的に」考えるよりも、恐怖感を持つことによって即座に逃げるほうが生き延びる可能性は高まったのである。

 このような感情のもつ機能に着目した、進化的な説明は、現代の進化心理学では一般的なものになっている[4]。 情報処理に関して、状況を単純化し、行動を適切に導くという考えである。このような感情のもつ進化的な機能について、経済学から説明したものに、アメリカの経済学者ロバート・フランクによる『オデッセウスの鎖 適応的プログラムとしての感情』がある。

 フランクの考えを、有名な囚人のジレンマ・ゲームに題材として考えてみよう。これは、二人の囚人が一緒に犯罪をした後に警察に捕まり、相互に連絡が取れない状況で、それぞれがもう一方を裏切って自白するべきかどうかをめぐるものである。二人がともに自白しなければ、双方が懲役3年となる。一方が自白し、もう一方が自白しなければ、自白したほうは懲役1年になり、自白しないほうは5年となる。双方が自白をすれば、双方が懲役4年の判決を受ける。

 この場合、相手の行動のいかんにかかわらず、常に自分は自白する戦略を採ることが有利になる。よって、双方が自白をすることになるが、その結果は、両者の懲役4年という結果になってしまう。双方が自白しなければ、双方ともに3年となるはずだが、両者がコミュニケーションを取れない状態では、相手の行動を制約することはできないため、相手が自白しないことを確信できない。これがジレンマ状況にあるといわれる理由である。

 この場合、両人に対して、自白をすることによって、なにか懲役刑によって受ける不利益以上のコストがかかるのであれば、この問題は解決される。たとえば、相手に対する強い連帯意識と、裏切りへの激しい罪悪感を持つ人は、それを回避するために囚人のジレンマ状況で自白をしないかもしれない[5]。このように、より一般的には、道徳感情はその場限りの利益に踊らされることなく、より長期にわたる関係を築くために存在するといえるだろう。

 また別の例として、愛がある。愛は不合理なものだといわれることも多いが、相手に愛情を持つことは相手との長期的に安定的な関係をもたらす。結果として、単なる一時的な性欲にのみ支配されるよりも、ヒトの子どもの長期間にわたる養育に関して適応的であっただろう。結婚にはつきものの大きな挙式費用、双方の家族を含めた儀礼に費やされる手間や時間なども、長期にわたっての相手へのコミットメントを深めるために発達してきた文化だといえるだろう。私見を述べるなら、女性のほうが一般に婚姻の儀式に興味があるのは、男性の日和見主義的な離婚を防止する必要があるためである。これは女性の側からみると、子どもを産み、育てることに男性よりも大きな投資をするからだろう。

 また別の例として、ある個人が傷害未遂の被害者だったとしよう。怒りの感情があれば、結果としては未遂に終わった行為に対しても強く非難し、相手に不利益を与えようとすることになる。そうすることによって、自分への傷害行為のもたらす復讐の危険性をはっきりと告知できるのである。こういった態度は、未遂行為を罰しないような、結果オーライの楽天的な個人よりも長期的には適応的であったに違いない。そこで、我われの心には、犯罪行為に対して強い怒りを感じ、再犯の防止や完全な贖罪を超えて相手を罰したいという感情が備わるようになったのである。

 この問題は、刑事罰のあり方についての後の議論に関係することになる。無政府社会の警備会社は犯人を処罰する必要があるが、そこでどのような形態の処罰が実行されるべきなのか、あるいは人びとがどのような処罰の形態を望むのかは、犯罪への怒りから生じる応報感情と独立ではありえないからである。

 

人権をゲーム理論的に定義する

 フランス革命やアメリカ独立によって確立した現代の民主主義政治とは、天賦人権説のフィクションに基づいた、市民の前国家的な権利の回復運動だと考えることもできよう。人は人であるがゆえに神によって譲ることのできない前国家的な権利を有しており、それが政府によって蹂躙される場合には、それを回復することが許されると考えるのである。

 では神なき時代の、「人が人であるがゆえに認められる権利」とは何を意味するのだろうか?憲法学者は「人間の尊厳」などというような言辞上の言いかえを好むようだが、それでは自然科学的探究心は満足できない。また後述するように、シンガーなどの哲学者は、高等霊長類にも人権を認めようとする社会運動を提唱しているが、このことをどう考えるべきなのだろうか。

 人間は人権を持つが、チンパンジーは権利を持たない。これは我われとチンパンジーが500−700万年前には共通の祖先を持っていたが、たまたま中間種が絶滅しているので、交配ができないことによる。しかし、これは生物史上の単なる偶然である。よく知られている例では、イギリスのニシセグロカモメは、北極まわりを一周する間に、アメリカに近づくにしたがってセグロカモメ的な種へと連続的に変化して、ヨーロッパに戻ってきたときには完全なセグロカモメになる。そして、この間のどの近親集団も交配するにもかかわらず、ヨーロッパに並存するニシセグロカモメとセグロカモメは交配しない。この場合、どこに種の境界があるのかは、まったくはっきりしないのである。

 これに比べて、人間とチンパンジーはたしかに現在は隔絶した種だが、その距離はそれほど離れているわけではない。ある女性がその母親の手をとり、母はそのまた母の手をとって、そのまた母の手を、と繰り返しながら、東京から大阪までずっとならんだとしよう。平均20歳で子どもが生まれてきたとすれば、500万年の間に25万人が存在したことになる。この時点で我われの遠い母親はチンパンジーの遠い母親と同じ個体になるのである。ここからその原始の母親は、今度はチンパンジーへと続く別の娘の手をとり、娘はその娘の手をとり、その娘はそのまた娘の、と繰り返すとしよう。25万代の後には現存のチンパンジーにたどり着くことになる。この二つの系列をあわせると50万人、一人が1メートルとすると、500キロメートルでちょうど端から端へと続くことになる。つまり、東京から大阪まで母娘が手をつないでいくうちに、現代の我われの誰もが、大阪に着いたときには遠い親戚である現在のチンパンジーを見つけることになるのである[6]

 さて、チンパンジーと人間の交配は不可能だが、遺伝的に99.8%が同一である以上は、遺伝子工学の急速な進歩によって両方と交配可能な中間種が作られるようになる可能性もあるだろう。そのとき人権はどのように考えるべきなのだろうか。

 あるいは、近い将来に起こるだろう遺伝子的な人類の分岐についてはどうだろうか。我われは、何であれ子どもに高い能力を望むため、近い将来に受精卵の遺伝子操作を始めるだろう。その場合、急速にヒトの遺伝子プールは拡張し、すぐに相互に交配不可能な種に分化していくはずである。そのときも、人権はどのような主体に認められるのだろうか。

 この点を統一的に考えるには、現代社会のように国家が各人の人権を守るという枠組みよりも、むしろ無政府社会における契約による権利の保護のほうが適切である。これはまた、繰り返し立ち戻る主題である。

 さて現代社会に戻って考えると、人が自由に往来する権利、職業活動を自由に行う権利、自由に他人と交際する権利、自由に表現する権利などは、すべて前近代の国家が僭越で危険だとして人びとに認めてこなかったものである。それが近代に入ると、産業社会の成立とともに、資本家たちの間で王権からの自立を望む機運が高まり、結果としてこれらの権利は天与の人権として尊重されるべきだという考えが広まったのである。だから、ここでいう人権とはまさに人が人に対してもつ権利であって、それはむやみに他人の私生活や自由に干渉しないというものだといえるだろう。

 私は人権思想、あるいは法の支配に基本的に共感している。しかし、それはやはり我われの時代の価値観、あるいはイデオロギーであって、我われの思惟と離れて自然界に実在するものではない。我われの時代の技術背景に適合した、人間同士の明示的・黙示的な相互契約が人権であるとすべきである。

 そして自由権が確立したのは、まさに我われの利己的な心性からだと考える。王や領主の許可がなくてもどこにでも行き、好きな友人と話し、好きな異性と結婚する。自分がしたいようにしたいという素朴な欲求は、そういった自由を許す社会が産業を急速に発展させていくにつれて、それらの自由な行動を封建的権威者に対して人権として認めさせていった。あるいは、そのような人権を認めるのは資本家にとっても、その支配者にとっても領域経済の発展や税収の増大、国力の増大という私的な利点が明白にあったからだろう。

 私はここで、人権を単なる形而上の産物だとして否定したいわけではない。人権の概念は我われの直感に訴えるにとどまらず、その運用もまた合理的な国家制度を保障すると思われるからである。また立憲主義という考えは、政府の不必要な干渉に対して個人の自由を守る防御壁となってくれる。

 しかし、無政府の社会では、人権の観念は、人道主義、あるいは人間主義と同じように黙示的な存在に後退するように思う。無政府の社会では、人権を守るべきだと伝統的に考えられてきた主体である国家は存在せず、かつ基本的には特定の個人間には、明示的な契約が存在しないからである。

 各人の実質的な権利は、彼や彼女の契約する警備会社・仲裁会社によって保障されるのみとなる。それは国家という強制力はなくなり、警備会社がもつ物理力によって支えられているに過ぎないという意味で、これまでのように普遍的にすべての人が同じ権利を持つというものではなくなるだろう。

 高等霊長類やクジラの権利も、あるいは自分では意思表示のできない人間の権利も同じように、動物愛語のNPOの誰かが動物たちの代わりに警備会社と契約をして、契約の履行を要求するということになる。あるいは動物愛護や人権擁護のヴォランティア自身が警備団体をつくって、彼らによって守られることになるかもしれない。

 

積極的人権と利他主義

 20世紀以降、明らかに人びとの常識は変化してきた。国家からの自由という消極的自由に加え、国家による「欠乏からの自由」といった積極的自由もまた、基本的人権として承認されるようになったのである。このような自由の二元論は、オックスフォードの政治哲学者アイザイア・バーリンの『自由論』に典型的に現れている。バーリンは1958年に『二つの自由』を著し、自己決定の実質的な能力を高めるという意味で「自由」を解釈し直し、それ以来、現代国家には様々な社会福祉的な諸政策が要請されることになった。

 しかし、国家が何らかの政策を決定するということは、ある政策に反対する個人にもそれを押し付けるということを、不可避的に意味する。国家的な行為とは、つまり物理的な強制力に裏付けられた服従を、我々は余儀なくされる性質のものだからである。と同時に、国家が救貧政策を行うのであれば、現実には富裕階層からの税金によるしかない。この意味で、福祉国家とはつまり富裕層の財産権の侵害に基づいてのみ成立しえる制度なのである。

 産業革命以降、人間生活の物質的な状況は急速に改善され、それによって人びとの間ではある種の余裕が生まれた。その結果、国家を通じての社会的弱者に対する利他行動が人道的にも望ましいと考えられるようになったのだろう。この意味では、人びとの利他性の発露が積極的基本権を肯定させ、それに応じて現在の社会福祉国家を要請しているのかもしれない。

 これは利他的な行為への共感としては理解できるが、私は、これは誤った方向だと考える。なぜなら、政府が行う行為には、すべてに二重の問題が生じるからである。第1は、政府の直接的な活動自体の効率の悪さである。よく知られているように、政府セクターには効率化へのインセンティヴがないため、民間セクターに比べてほぼ半分の生産性しかない。第2の問題は、政府の行為から利益を得ようとする特殊利益団体によってロビー活動が行われ、結果、公務員への賄賂やその他の働きかけによって資源が無駄に使われてしまうことである。これを経済学ではレント・シーキングと呼ぶ。1990年以前のインドやトルコのように、社会主義的な貿易政策を採用する国ぐにでは、このようなレント・シーキングのために、実に国民生産の半分近くに及ぶ資源が投入されていたことが報告されているのである[7]

 それだけにはとどまらない。生活保護制度などの純粋な救貧政策を除けば、諸処の社会政策はむしろロビー活動によって、より富裕な人びとにとって有利な制度に設計されたり、変更されたりしているのが現実である。例えば、年金制度は一見して社会的な弱者を救っているようにも見えるが、その主要な恩恵を受けているのは現役時代に高給を得ながら長生きしている、社会の上層階級である。農業保護政策にしても、農家の平均収入は都市部に住む貧困層の平均を上回っている。にもかかわらず、農家保護という理由で都市部の貧困層から安価な輸入農産物を禁輸し、それによって所得を都市貧民から農家へと移転している。

 これらの詳細はここには書ききれないが、医療制度や訴訟制度などの改革は我われの実質的な所得を2倍以上にするだろう。だからこそ、政府のない社会は、政府によって活動が規制されすぎている社会よりも自由で、物質的にも豊かで魅力のあるものなのである。

 前述したように、明らかに人間には利他的な行動様式や感情が存在している。であるなら、政府という強制装置を作って利他的な社会を実現するよりも、それを自発的に実現させたほうが、望ましいだろう。そこには、脱税の努力などは存在せず、寄付という負担をしたものがそれだけ自分の名声なり、評判なりをあげることのできる社会である。そこでは、強制的に他人から金を奪って、別の人間に分配する人びと、つまり政治家や官僚がいない。

 誰であれ、彼が考えるすばらしい社会を実現したい人がいるとしよう。彼は、まず自分でなにか人びとに購入することを納得させるようなものをつくりことになる。その対価として得た金銭を、その目的に捧げればいいだろう。これは本当にすばらしいことだ。なぜなら、集団の中に政府という収奪するだけの強盗がいる社会よりも、いない社会のほうが、それらの強盗団の一味(公務員)になる人びとが生産的に働く分だけ、社会全体はより豊かになるだろうからである。

 



[1]  自分が100の資源を当初持ち、相手にいくらかを渡す。この提案を相手が受け取れば、双方がそれぞれ提示額の得をするが、拒否した場合には、双方ともがすべてを失う、という最後通牒ゲームがある。ここでも、相手への提示額は50であることがもっとも多いことは、我われの衡平感覚の強さを物語っている。

[2]  群淘汰の概念から導出される利他性の可能性は一般の進化生物学者には否定されているが、人間に関してこれを肯定する論文としてはSober and Wilson (1994)がよく知られている。

[3]  このような政治的偽善がなぜ広く一般的になされているのかをゲーム理論から説明したものとしては、エリク・ポズナー『法と社会規範』(第11章)がある。エリク・ポズナーは人間の発言行動をシグナリング・ゲームとみなし、シェリングのfocal pointの概念を適用する。それによって、あるものの価値が他のものと比較不可能であるという、経済学では否定されている主張が、なぜ一般的に行われるのかを説明している。

[4] ex. Barkow, Cosmides, and Tooby 1992, Buss, 1999

[5] フランク p.44

[6]  これはドーキンス『悪魔に仕える牧師』pp. 49-50での例えであるが、アフリカの地理を日本の地理に変更した。

[7]Kluger 1974